黒い膜のような雲に覆われ、雷鳴が轟くチョモランマ。
サイチョウとの謁見を終えたオオハシは、通路から空を見上げる。
「もう時間はないか…」
東の空から飛んでくる翼が一つ。オオハシのもとへと向かうその翼は伝令のものだ。
ベニヒワたちの敗北、ライチョウ信徒の抵抗は思っていた以上のようだった。
バードストーン収集に向かわせた翼の者たちも、いまだここチョモランマに姿を見せない。
サイチョウの話では、もう時間がないのだという。オオハシもこの空の荒れっぷりを見るとそうなのだと実感せざるを得ない。
ずいぶんと巨大な存在だ。その巨大な存在と戦うことを決めた。この世界を変える、そのために。
――邪魔者は排除せよ。バードストーンを使用してでもライチョウの信徒を食い止めよ――
薄暗い間に玉座に座する彼ら翼の者の頭首、不気味な兜で表情すら読み取れないその男サイチョウがオオハシへと命じたこと。
「(ずいぶんと変わられたな、サイチョウ様も。バードストーンにとりつかれたのか)」
考え方も変わってきた。翼の者たちを拾い育て、家族だと言って大切にしていたサイチョウが、今ではバードストーンの使用すら命ずるとは。鳥神の暴走が始まり、世に姿を見せる時、それが世界の破滅の時だ。その前に鳥神を倒す。人々の心が病み、森や大地は荒れ果てて、鳥神が目覚める。その時は刻一刻と迫っている。
焦りがあるのか? サイチョウの中に。
「浮かない表情ですね、オオハシ殿」
くすりと小さな鼻笑で、足音も立てずに現れたのはブッポウソウ。
「もどってきませんねぇ? 彼ら。まあ仕方ありません。翼を失ったのなら役立たずですから。
あなたの配下に少しでも期待した私が愚かでしたよ」
いつものブッポウソウの嫌味に、オオハシは反論するでもなく目を細める。
彼らは若すぎた、未熟だった。そんな彼らに期待しすぎるのもバカだと思った。また自分の指導力不足でもあったろうと。終ったことは仕方ない。が彼らはサイチョウに拾われ育てられた子らだ。サイチョウへの忠義心は持っていただろうと思う。サイチョウのためであれば事を果たしてくれる、そう過信していたところがあったのも事実。
それに比べて、まともに姿を見せないブッポウソウの部下が気になる。連中は目的の為ならどんな手段も選ばないと言う。目的を果たす為なら、翼であるプライドすら捨て去れるのだろう。いや、ブッポウソウにプライドはあるのか?
「お前の部下の働きはどうだ?」
「ふふいらぬ心配ですよ。ちゃんと動いてくれてます。そうそう、ライチョウの信徒の動きも逐一報告を受けていますよ。連中はチョモランマを目指しています」
「そうか、ならば出向く必要はないな。ここで迎え撃てばいいことか」
「ええそうですよ。よかったですね、あなたの甥や配下も、少しだけ死期が延びて」
「一度だけ目にしたことがある。見たこともない怪しげな老女がチョモランマにいた。あれがお前の信頼できる部下なのか?」
ぴくりとブッポウソウの耳が動く、ふふといつもの余裕を帯びた表情でオオハシを見る。
「ええそうですよ。あれこそもっともサイチョウ様を崇拝する者。オオハシ殿、人を見た目で判断しないほうがいい、痛い目を見ますよ」
「そうだな、そのとおりだ。お前がそうなのだからな」
オオハシはブッポウソウに背を向けて、己を待つダチョウのもとへと向かった。最後の修行の時間だ。
「フ、知らぬくせにわかったように言う…」
冷めた目でオオハシの背を一瞥して、くるりと反対方向へと背を向けてブッポウソウも去る。


「いよいよ決戦の時は近づいているわ」
ぐっと握りこぶしを突き出して意気込むのはウミウ。彼女を囲む兄弟たちも力強く頷く。
「でも、まだみんな戻ってきませんわ?」
とはいえ不安な声をもらすカワウ。ケツァールの城で一緒だった仲間たちは、ここにはほとんどいない。
ベニヒワとペンギン、オオルリとカッコウはもうここへはこれないだろう。彼らは戦う力を失ったのだから。
その他の若き翼の者たちもバードストーンの収集に手間取っているのか、戻ったという報告を耳にしていない。
ライチョウ信徒の抵抗も聞く。彼らに邪魔をされて、思うように事が運ばないのだろう。また西地区の反翼勢力の存在も軽視できない。
順調に進んでいたように思われるサイチョウの計画も、直前に来て進行が滞っていた。だがもたついている暇はない。日に日に事態は悪化していく。チョモランマの天候の荒れも酷くはなれどよくはならない。大地を貫く雷の柱が地面に傷をつける。ごろごろと唸る空は、鳥神の怒りの声のよう。
「残されたあたしたちだけでも、戦わなきゃいけないの。正念場よ。この世界を救うのはあたしたちだよ!
気合いれて」
ウミウの号令で六人は円陣を組んで気合をいれる。
「あたしたち兄弟六人でここまで来た。サイチョウさまとともに、最後まで全力でがんばるの」
「うん、そうですわ」
「はい姉上!」
「姉上たちと一緒なら怖くありません」
こくりと頷くカワウ、ウミアイサ、カワアイサ。
「姉上…」
小さな声でヒメウを呼びながら、くいっと彼女のワンピースをひっぱるミコアイサ。振り返るヒメウを見上げるミコアイサは不安な眼差しをしていた。
「あのこと、みんなに話さなくていいんですか?」
ミコアイサのいうあのこととは、ヒメウもすぐにわかった。カラスに助けられたことだ。そのことは兄弟の誰にも話していない。ヒメウがミコアイサに口止めしたのだ。あいつは敵なのよと言い聞かせて。
ミコアイサはカラスと戦うことに良心が痛んだ。幼い弟はそれにきっと耐え切れない。
「だめよ、絶対に。ねぇミコアイサ、あなたはだれが大切なの? 優先すべきは?」
「あ…」
悲しげな目で、ミコアイサは気づいて俯いた。
サイチョウに拾われる前も、拾われてからも、ずっと一緒だったウ姉妹とアイサたち兄弟。顔立ちもそっくりで、性格に多少の違いはあれど想いは同じだった。特別話し合いの場を持たなくても、心が通じ合うくらいに、兄弟の絆は強かった。ヒメウもミコアイサも、兄弟がなにより大切で、一番優先すべきことだった。
カラスと兄弟天秤にかければどちらに傾くか、考えるまでもなかった。
「姉上は…」
「私も同じ」
弟に優しく微笑みかけるヒメウの瞳が切なく揺れていたのをミコアイサは見た。なによりも強い絆で結ばれた血を分けた兄弟だからわかる。ヒメウも自分と同じ気持ちで、できるならカラスと戦いたくないと。心の奥で泣いていると。でもヒメウの決意を知り、ミコアイサも小さなくちびるをきゅっと噛み締めた。
「僕も姉上とどこまでも一緒です」
「当たり前でしょ! いくわよみんな」
とリーダーのウミウの合図で、兄弟六人も修行の場へと走った。残された時間、少しも無駄にはできない。少しでも今よりも強い翼をえて、ライチョウの信徒たちを…、そして目指す敵鳥神と戦わなければならないのだから。



カッコウたちと別れて、スズメとカラスとハヤブサとタカの四人はワシとの合流目指してチョモランマの方角を進む。キツツキたちが持つバードストーンはスズメが所持していた。カッコウたちのことがありチョモランマに戻りづらくなった彼らは、バードストーンのおそろしさを目の当たりにしたこともあり、スズメたちに託したのだ。
カッコウとオオルリもキツツキたちに付き添ってフォンコンへと向かうと話していた。カッコウだけは、一人ハッピーエンドな気分を迎えていた。「もうこのまま死んでもいいぜ」と叫ぶたびにオオルリに殴られ悦んでいたのだから一人幸せなことだ。現金なカッコウはワシへの敵対心どころかワシの存在すら忘却し、タカらに友好的な態度をとってきたりで、周囲がとまどいあきれていた。タカからすれば、カッコウとの長年のしこりはようやく消えたと言っていいだろう。友と呼べる関係ではないにしても、一歩前進である。

チョモランマに近づくに連れて、ごつごつとした岩肌の大地の景色になる。草も生えぬ不毛の地。赤茶色の世界があたりに広がる。そこが世界の中心チョモランマの景色。空も段々と曇り、荒れていく。
いくつものはげ山がその先に見える。この辺りでは集落もほとんど見られなくなる。寂しい景色だ。
もごもごと、おいしそうな顔をほころばせてスズメが歩く。カラスより渡されたヒバリ手製の保存食を食べている。カラスたちと合流してから、カラスから日鳥国の話を聞いては嬉しそうに笑って元気を貰う。
「ねえ、タカも食べる? すっごくおいしいよ」
前方を歩く会話に一切からもうとしないタカに、スズメがヒバリの手製保存食をすすめるが。
「いらねぇ」
と無愛想な返事がかえってくる。
「なによ、おいしいって言ってんのにかわいくなーい」
ぶうっと頬を膨らませてスズメは不機嫌な顔になる。ころころと表情を変えるスズメを見て、カラスは妹を見るような穏やかな顔で小さく笑う。
「スズメとタカってやっぱ似ているよな。兄妹みたいだ」
「「全然似てない!!」」
とスズメとタカが同じような怒り顔でぐわっとカラスに振り向いた。
「やっぱり似ているよ」
「失礼ね。あたしはタカみたいにひねくれてないもんね。自分でいうのもなんだけど素直だし」
「自分で言うなよ」
けらけらとカラスが笑う。スズメは真剣な顔で主張する。
「まあタカも、あたしと二人の時はわりと素直になれるのに、何でみんなの前だとああかわいくなくなるんだろ?」
スズメのそれに、ハヤブサは一人表情を曇らせた。スズメはそういう意図で言ったわけではないが、タカが皆の前でというのではなく、自分がいるからではないのかと。
「おい! 変なこと言うんじゃねぇ!」
目を逆三角にしてタカがお決まりのように怒る。
「あはは、照れてる照れてる」
きゃっきゃっとむきになるタカをからかうスズメを、タカが鬼の形相で追いかける。バタバタと子供の鬼ごっこのようにかけていった二人を笑いながらカラスが眺めていた。
「子供みたいだな。…? ハヤブサどうかした?」
ハヤブサの様子がきにかかりカラスは訊ねる。
はっとしたようにハヤブサは顔をあげた。
「あ、ああいや。…私のせいなんだなっと思って。タカ兄さんが素直になれないのは、私がいるせいだろう。
オオルリにしても、私は自分で思っていた以上に人に嫌われていたらしい。思い起こせば、自分の思想が正しいと信じ込んで、そのために突き進んで、ワシ兄さんにも迷惑をかけたし、ははは、今さらだな私はなんて迷惑な存在なんだ」
自虐して、ハヤブサは乾いた笑いで誤魔化した。
「だれにも嫌われない、迷惑かけないって難しいよ。だけど努力することはできる。少しでも改善することはできるよ。ハヤブサが諦めなかったら、がんばったら、変わっていくことも可能じゃないかな。
あきらめないで欲しいな。俺はハヤブサの前向きなところ好きだから、そこは変わって欲しくない」
はっと息をすいこんで、ハヤブサは「ありがとう、カラス」と言った。
負けない、強くありたい、そう思い生きてきた。だけど簡単に心強くはなれない。折れそうに頭垂れることもある。そんなときに優しく強く励ましてくれる友の存在が、なによりもかけがえのないものだとハヤブサは改めて感じていた。
「あれ、たく、どこまで走っていくつもりだよ?」
まだかけっこを続け、どんどん離れていくスズメたちにカラスがあきれのためいきをついた。

スズメとタカのかけっこはとまった。それはスズメが前方に人影を発見したからだ。こんな荒野に一人きり、翼の者かと警戒するが、その警戒はすぐに解けた。ぼさぼさに長く伸びた白い髪、折れ曲がった腰に杖をついた老女。こんなところでどうしたのだろうとスズメたちが駆け寄る。
「おばあさん? こんなところでなにしてるんですか?」
「あ、ああ、ちょうどよかった。実はね、道に迷ってしまって…」
困ったようにためいきをはく老女。腰も曲がり、杖もつくほどの高齢の様だ。そんなお年寄りがチョモランマにも近いこんな危険地帯にいるなんて、どういうことか。
「こんなとこに、なんでばあさんがいるんだよ?」
「翼の者にだまされてね、こんなところで迷う羽目になってたんだよ…」
「酷い! おばあさんを騙すなんて、サイチョウ軍の奴らね」
ぷんぷりとスズメが憤慨する。
「安心して、あたしたちは悪い翼じゃないから。おばあさんをつれてってあげるよ」
「そりゃありがたい、助かるね…。なら連れてってくれるかい?」
よぼよぼと歩く老女へとスズメが手を伸ばすが、老女はスズメの手をとらずにタカの前にと行く。きょとんとしながらスズメが首を傾げると。
「元気なお嬢ちゃんでも重いだろうからねぇ」
スズメを気づかってか、タカに運んでもらうつもりらしい。なるほどと納得しつつもスズメが
「おばあさん、こう見えてもあたし力持ちなんですよ」
運ぶ気マンマンのスズメに、なぜかタカが対抗意識をメラメラさせる。
「力ならオレのほうが上だ!」
「今はりあうところ?」
「おいスズメ、ばあさんくらいオレが連れて行ける。お前は先に戻ってろ」
「ありがたいねぇ」
ありがたやありがたやとタカに抱かれながら老女が嬉しそうにしわいっぱいに笑みを浮かべた。
「うんわかった。じゃタカおばあさんのことお願いね」
素直に任されて、タカはフンと鼻を鳴らして顔を上げて翼をはためかせた。スズメはカラスたちのもとへと戻った。

タカは老女の案内どおりに飛んでいった。老女が「ここだよ」と指示して降りたそこは、人気のない山道だった。
さすがにタカも怪しんだが、老女は「そっちだよ」と指差してタカを先に歩かせた。古びた家屋が一軒あった。
「おいばあさん、ここ…!?」
タカが老女へと振り返る直前、タカの視界は暗転した。強い衝撃と共に。どさりと地面に倒れたタカを、見下ろす影は老女ではなく、タカだった。気を失いうつぶせたタカを、不気味に見下ろすもう一人のタカは、すぐに翼を広げスズメたちのもとへ向かった。


「タカ、まだかなぁ?どこまで案内したんだろ?」
岩陰に身を潜めていたスズメたちはタカの到着を待っていた。スズメがゆっくりと飛びながらタカの姿を探した。
「あっ、来た来たタカーー」
スズメが手を振り、タカはすぐに側へと来た。
「悪いな、遅くなった」
「おばあさんは、無事送ってこれたんだよね」
「ああ」
「じゃあみんなのとこに行こう」
スズメがタカをつれ岩陰へと降りてきた。スズメたちを「おかえり」とカラスとハヤブサが出迎える。
もう日が暮れ、今夜はこの岩陰で休むことになった。数メートルおきに身を隠せそうな岩陰が点在し、みな近い所で身を休めることにした。
スズメたちは石の上に腰掛けて、包みを開いてヒバリ手製の保存食をほおばった。あむあむしながら「うーんおいしい」と何度もスズメは幸せの表情で食す。
「タカもいいからひとつ食べてみなよ」
ひらひらと手を振りタカを呼ぶスズメ。タカはゆっくりと歩きながら三人の元へと来た。
「じゃあ、もらうぜ」
ひょいと伸びた手は、ハヤブサの包みのものを掴んで引っ込んだ。ぎょっと目を見開いたのはハヤブサ。
「あ、あうう、えと…」
ぱくぱくと動揺するハヤブサに、ちらりと横目で見てから、ふいと無愛想にタカは三人から離れてぱくりと口に含んでいた。
「びっくりした」
ははと苦笑しながらハヤブサがつぶやいた。てっきりスズメの包みからとると思っていたもんだから、タカの手が自分の包みに伸びてくるなど予想外だった。あれほどまでに自分を毛嫌いしていたタカだからと。
「どうしたの?ハヤブサさん」
あわあわしているハヤブサにスズメがきょとんとした顔で訊ねた。
「あ、いや、なんでもなんでもないよ」
ふー、と息を吐いて、一人離れた先で口をもごもごさせているタカを見やった。なんだろう、さっきの行動は、もしかしたら、タカはハヤブサが感じているほど、意識してないのでは? 一瞬そんな気もよぎったが、そんなわけないだろうとハヤブサは悲しく心の中で首を振った。あんなにも殺意を抱くほどに自分を嫌っているタカが、自分を意識しないなどあるわけないと、悲しい結論をつけた。
岩にもたれ、一人佇むタカを、少しはなれた場所から観察するスズメ。そのスズメの横にひょいとカラスも立つ。スズメは真剣な、むむと考え込むようなしぐさでタカを眺めている。
「スズメ、どうしたんだ? タカのこと見つめて…」
「なんかタカ、いつもよりかっこよくない?」
「え? そ、そうかな?」
きょろきょろとスズメの顔を見て、タカを見るカラス。スズメの真意を訊ねる。
「いつもよりも、どことなく、雰囲気的な? 憂いを帯びた横顔」
月明かりのせいとも思えるが、スズメは真剣な顔でそう答える。「はあ」とカラスは不思議な眼差しで首を傾げる。
「なに見てんだ?」
じろりとタカが不機嫌な声でこちらを見やる。
「まあでもやっぱりハヤブサさんのほうがカッコイイけどね!」
これまた真剣な顔でスズメが言うものだから、カラスはずっこけそうになる。
「スズメ、ちょっとタカにひどいよ」
まあそれもタカの耳に届いていないようだからよしとしよう。トンチンカンなスズメをスルーして、カラスはそろそろ休もうと提案した。


寝床にとおさまるスズメたち。ハヤブサは寝床につきながら、ずっと考え込んでいた。何度も脳内で再生され、そのことばかり考えている。さきほどのタカの行動に違和感を覚えて。気にし過ぎかもと思う。もしかしたら、タカはもうそんなに自分の事を嫌いでなくなっているのかもとも、
「それはない…」
悲しいつぶやきはハヤブサの心の上にぐっと重りのようにのしかかる。
私のせいだ。幼いときから、気づかないとはいえ、無意識とはいえ、タカの心を傷つけてきた。大人しいタカはその感情をずっと押さえ込んでくるしかなかったのだろう。手のつけられないくらい憎しみが膨れ上がるまで。
目を閉じたハヤブサの目尻には、零れた水がつーと頬を流れた。
寝息だけが響く岩陰で、ハヤブサの枕元に静かに立つ影があった。
ハヤブサを見下ろすその影の主は、タカだった。
膝をついて、タカはハヤブサを見下ろす。切なく表情を揺らして、タカの手はハヤブサの頬へと触れそうな距離まで伸びて、ぎりぎりの距離でぴたりと止まる。
「タカ…兄…」
苦しげなそのハヤブサの声に、タカは悲しく目を伏せた。その目の奥でなにを想うのか、だれを思い出すのか。
なにもせず、タカはゆっくりと立ち上がり、自分の寝床へと戻った。
タカの姿が消えて、ゆっくりとハヤブサは瞼を起こした。
「どうして…」
ハヤブサはタカに気づいていた。寝たふりをしていたのだ。
タカの行動の意味がわからず、ハヤブサの中で疑問だけが膨らんでいく。
いや、それよりも、違和感が強くくすぶっていた。


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