「未練などないわ…、この世界に」
まばらに木々が立つだけの寂しい山、ネーパル山。
その頂上で長く束ねた緑がかった黄色い髪と薄いマントを風に揺らしながらケツァールはいた。
どこか遠い眼差しで、ケツァールは冷めた声でつぶやいた。
未練などない、どうでもいいのだ。
あの日、あの箱の中に閉じ込めたものは、忘れたい過去。
忘れたいのだ、考えたくないのだ。
なのに……。
バードストーンを身につけて、翼の将として、今の地位が望んだことだったろうか。
翼の者として、サイチョウに認めてもらえたことは嬉しかった。が、ほんとうにそれが望んでいたことだろうか。
まだ…少女だったころ…、初めて抱いたあの想い……。
とおの昔に消え果たあの想い。あの箱の中に一緒に閉じ込めたはずのあの想い。
もしかしたら、それが……、ほんとうに願ったことなのだろうか?

「逃げずにきたようね、ワシ」
自分の前へと現れたワシ。にやりといつもの自信に満ちた笑顔でケツァールはワシを迎えた。
「ケツァール」
厳しい表情でワシはケツァールとの約束どおりこの山へとやってきた。思っていたより早く到着したワシ、ケツァールはワシが大した準備もなくやってきたのではと思う。時間的にも無理があるだろうと。
「わかってる。約束は守るわ。あなたが私に勝ったら、すべてのバードストーンを譲るわ」
涼やかに笑いながらケツァールは告げた。
「…あなたが勝ったら?」
ワシの問いかけに、ケツァールは「ふ」と小さく笑い答える。
「別にいいわ。どうせ私が勝つのだし。それに、私の願いはあなたじゃ叶えられない」
後半ふっと悲しげな顔を見せたケツァールにワシは彼女の異変に気づく。が、すぐにいつもの強気なケツァールの顔になり決闘の合図をする。
「おしゃべりはお終いよ。さっ、いくわよワシィ!!」
鮮やかで好戦的なケツァールの翼がその背に現れる。翼からいくつも風が巻き起こり、ワシの目を細くさせる。
「ケツァール、ひとつ教えてくれ! あなたはなぜ? なんのために戦っている!?」
サイチョウのためでも世界の為でもない。ケツァールが戦う理由を知りたい。ワシはケツァールが起こす激しい風の中、疑問をぶつける。
「あなたに話す必要は、ない!」
ケツァールの翼によって起こされた風の渦にワシは飲み込まれ、息苦しく顔をしかめる。
「くっ」
翼の力で防御に徹し、ひたすら耐える。
「なにをやってるの?ワシィ! バードストーンが欲しいんでしょう?!」
「私がここへ来たのはバードストーンほしさではない。私は、あなたの本当の心を知りたくて来た。
私は翼ではあなたに敵わないことはわかっている。だが、気持ちでは……」
「ふん、バカな子。気持ちでは私を打ち負かせると思って? 壊してくれる!
あなたの信じているモノをね!」
カッと見開くケツァールの目。さらに力を解放したケツァールはバードストーンの後押しもあり、激しい風の圧がワシを襲う。
「ぐうっっ」
体を震わせ、苦しみに耐えながら、ワシは心に思う。
「(私の信じているモノ…?)」
ワシの脳裏に浮かんでくるのは…
『ワシ兄さん、私はライチョウ様に会いに行く』
ハヤブサ…。
『オレだけはワシ兄の味方だから!』
タカ…。
振り向きながら優しく微笑む光に包まれた少女。
「(光の翼の救世主)」
そして…、ライチョウが、サイチョウが浮かんでは消える。
それから……、悲しげな横顔、静かにこぼれていく涙。あれをどうして救えない?
ワシは思いを再確認する。あの日の己の幼さを、無力さを嘆いたことを。
「壊させない! そして本当に正しいのは何なのかを、あなたにわからせてやる!」
踏ん張りから一転、反撃にうつるワシ。ワシが放った風を一瞬焦りを見せたものの、すぐに難なく同じような風の撃を放ち返すケツァール。
「なにが正しいって!? ワシ。まさか、愛なんて言うんじゃないでしょうね!?」
くっ、と反撃を必死で耐え凌ぎながら、ケツァールに負けない強い眼差しでワシは答える。
「そうだと言ったら?」
攻撃が止む。相対する二人の間に静かな風だけが流れる。その流れに沿うように、ケツァールの表情も静かに悲しげに、いや、相手を哀れむような眼差しで「だからおろかだというのよ、ワシ。あなたのいうその愛が…、あの二人を、ハヤブサとタカを苦しめていたのよ。
あなたの一方的な愛があの二人を追い詰め、苦しませていたのよ」
兄の下を離れたハヤブサ、タカはハヤブサを殺そうとまで憎み、互いに傷つけあう結果になってしまった。
タカとハヤブサがそうなったのは、ワシの言う愛のせいだとケツァールはワシを非難し、指摘した。
口をつぐんだワシを見て、「お前もわかっているようね」とケツァールは続ける。
「それでもまだ正しいと言えるの?信じていると言うの?」
ワシはゆっくりと顔をもたげ、ケツァールを見る。
「たしかに…あの二人がバラバラになったのは私の責任だ…、そう思っている。
でも私は信じ続けた。
そして、二人は…私の元に帰ってきた。以前より強く逞しく成長して…。
そして私はこれからも信じ続ける。…愛の力を……」
答え、目を伏せるワシ。ワシは己の考えに迷いはなかった。兄弟を、愛を信じることの力を。
「そう、かわいそうね、あなたは…。愛することの悲しさを知らないなんてね」
ケツァールの悲観的な眼差しに、ワシは昔のケツァールを思い浮かべる。
ケツァールに出会ったばかりのころ、いつも悲しげな顔を見せていた。あのころからずっと、ワシが願っていたことは…。
「ケツァール、あなたは初めて会ったあの時から、いつも悲しそうな横顔を見せていた。私はあなたの本当の笑顔を見たことがなかった。
あの日からずっと私は、あなたの本当の笑顔が見たかった」
「ワシ、それはムリな話だわ。あの日に私は…。そう十五年前のあの日から…、私は…」


ケツァールにはかつて愛する者がいた。
共に生きていこうと誓った特別な男性が…。
だが想いに反するかのように、彼との日々はすれ違いも多く、気の強いケツァールは我慢ができなかった。
そのもっともとなったのが、十五年前のあの日の出来事…。
ケツァールは彼との間にやがて子となる卵を授かった。子が生まれれば、絆はたしかなものとなり、上手くやっていけるはずだと信じていた。だが…、子は生まれてくることはなかった。空の卵はケツァールにある決断をさせた。男の元を去るということ。激しい感情をぶつけて、男を煽ったが、彼はケツァールへの想いなど薄かったのだろう。彼女を慰めることも、引き止めることもしなかった。
心のどこかでそれを期待していたケツァールは完全に心を折られた。
その日を境にケツァールは愛することを、人を信じることをやめてしまった。
翼の力をもって、強くなること。だれよりも、あの男よりも。
バードストーンを身に纏い、他人を寄せ付けないオーラを纏い。
翼の者として、己を認めてくれたサイチョウとの出会いで、ケツァールは生まれ変わりやり直すつもりでいた。
あの男との過去は、ケツァールの中では完全に消し去ったつもりだった。
だが…、なんのイタズラか、あの男は再びケツァールの前に現れた。ケツァールと同じく、サイチョウのもとに集った翼として。

「まさか、その人は…?」
「私は解放される!」
ケツァールはカッと目を見開き、翼からまた激しい風を巻き起こす。再び強い風がワシをを襲い、ワシは翼を広げまたそれに耐えながら彼女へと想いをぶつける。
「あの男がいなくなれば、私は楽になれるはず。私に愛することの無意味さを、悲しみしかくれなかったあの男さえいなければ」
激しい怒りと憎しみの裏に、ケツァールの強い想いがあるような気がした。
「やっぱりそれは違うっ!」
ワシは叫ぶ。己の想いがケツァールに届かぬように、ケツァールの想いも相手に届かぬまま消えてしまったのだろうか。
「ワシィ、己が正しいと思うなら証明して見せなさい! さあ、これが最後よ、ワシ、自分のおろかさを思い知ることね」
「ああ最後だ、これが最後の…」
さらなる激しい風の圧がワシを襲い呼吸を奪う。苦しみに顔を歪めながらも、ワシは力を最大にしてケツァールの攻撃を耐える。これが最後だ、これが最後の師弟対決になる。ワシにはそれがわかっていた。
誰をも寄せ付けないケツァールに、一番近寄れる者は自分しかいないと、なぜか頑なに思い込んで。
「生意気な子ね、これでもどう!? ハァッ!」
ケツァールの美しい翼からさらに攻撃の刃が放たれ、ワシの体を四方から襲う。
「負けられない、私は…、タカ!ハヤブサ!」
自分の信じる道を進む、と自分から離れていったハヤブサ。ハヤブサを憎み彼女を殺そうと出て行ったタカ。
バラバラになったが、二人とも再び自分の元に戻ってくれた。いや戻ったというより、同じ道を進むことになった。愛は時に人を傷つけるものになる。だが傷を修復するのもまた愛なのだと、ワシは信じる。
これからも、守っていくために、私はここで負けられない。
「うおおおーーーー」
激しい風撃の中、ワシの髪は乱れ、羽が舞い散った。気が失う寸前まですべての力を極限まで高めて、耐え切った。厳しい顔をしていたケツァールから、諦めにも似た軽い笑みが浮かんだように見え、激しい風はやんだ。

「これが私の持っているすべてのバードストーンよ」
そう言ってケツァールは身につけていたバードストーンを掌に乗せ、ワシへと差し出した。
ばさばさになった髪や衣服のままに、ワシはケツァールからそれを受け取る。ワシはケツァールに勝ったわけではない。なんとか耐えただけだが、ケツァールがすんなりとバードストーンを差し出した事実に少し戸惑いの顔を浮かべる。
「ケツァール…あなたは…」
「ふ、いらないの? 私の欲しいものはこの石なんかじゃないのだから、未練などないわ。
心配しなくても、私は消えるわ。もうサイチョウ様のもとへは戻らない。
少しだけ本当のひとりになって考えようと思う。
本当はね、世界がどうなろうがどうでもいいこと。私にとって大切なのは…」
ワシに背を向けたまま、ケツァールはなにを想い空を見上げるのか…。
その瞬間、ワシの目には、あのころの、寂しげなケツァールの横顔が今の彼女にだぶって見えた。
ワシは胸を張ってケツァールに誓う。
「私が必ず証明してみせる。愛を信じることの強さを。
だから、私を信じて待っててください」
「ふん」
振り返るケツァールの顔は、いつもの自信に溢れた強気な表情だった。
「ワシ、私はお前はもっと利口な子だと思っていた。こんな考えなしのバカだとは思わなかったわ。
本気で信じている顔ね。いいわワシ、お前が愛を信じるというのならとことん信じるといい。
あなたの力でどこまでゆけるか知らないけど、せいぜいがんばることね」
再び背を向け、飛立つケツァール。ワシは黙って彼女の背中を見送った。きゅっと手の中にバードストーンを握り締めながら。
「ケツァール、私が必ず…あなたに本当の笑顔を…」
その姿が完全に見えなくなるまで、空を見上げていた。


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