あれはチョモランマにいた時の記憶だ。
家族を失い、兄に連れられ旅を続け、行き倒れたところを救われたのだという。
サイチョウという男に……。
連れてこられたそこでは、たくさんの見知らぬ者達が居た。もともと人見知りをする気弱なタカは、ワシ以外の者が怖く、自ら近づこうとはしなかった。
だが、不思議と近付けた者がいた。
その者は自分よりもかなり年上の男だったが、いつもその者も一人で居たせいなのか、自然と近寄っていけたのだ。空気だけではない。原因は別のところにあったのだろう。その者がいつも手にしていたもの、それにタカは強く興味を持っていたからだ。
「…ねぇ、…それって」
自分を見上げながら、自分が手にしているものを指差す幼い少年に男は気づいた。男はいつもひとりでいた。孤独な空気を纏った、言葉数少ない男。表情もほとんどなく、周囲からはなにを考えているのかわからいようにもうつるだろう。だれも寄せ付けず、本人もだれにも近づこうとはしない。彼はいつも、手にしている一枚の紙切れを遠い目をしながら眺めていた。
そんな自分に興味を示したのがこの少年タカだった。男は不器用ながらに「ああ、これか」と紙を指しながら答えた。
「光の翼を知っているのか?」
男の言葉にタカはパァァと輝いた顔でさらに興味を示した。
「やっぱりその絵光の翼なんだな!? オレ光の翼に会いたいんだ!どうやったら会えるんだ?」
男は不器用な笑顔で返しただけだ。彼はタカの存在を嬉しく思ったのか、眩しく感じたのか、その真意は聞けぬまま、離れて久しい。



「今どのへんだろう?」
スズメたち三人は森の中を歩いていた。テエンシャン周辺は森が多い。現在位置的にテエンシャンの南になるだろうか。翼で飛んで行ってもいいのだが、翼の力は飛ぶことでも消費するので、必要以上に飛ぶことはさけている。休憩の時間も増えてしまう為だ。それにこの周囲では翼の者を警戒する者も多い。チャボ族等は特殊なほうだろう。嫌悪、または強い敵意を抱く者も多い。そういった者に誤解されないためにも、極力翼を使わずにということだ。
にしても森は広い。西にあるというフォンコン。その方角はチョモランマを目指すことになる。
「ねぇ、チョモランマってどの方角?」
訊ねるスズメにハヤブサが答える。
「うーん、そうだな。テエンシャンほどじやないが高い山の群れが見えるだろ。そこを越えてずっと北西に向ったところだよ。あのあたりは荒地だから、これといって目印になるものがないんだけどな」
「ふーん、とりあえず飛んで確認してみるよ」
翼を広げてスズメが舞い上がる。
「おいスズメ気をつけろよ」
「ああ、翼の者に見つからないとは限らないからな」
心配する二人にスズメは「だいじょうぶ」と明るく返事しながら森の上へと飛んでいく。
「うわ、結構広いんだーここの森」
鳥神の影響を受けているとはいえ、このあたりの自然はまだ無事のようだ。以前よりも植物が減ってきたなど確実な影響もあるわけだが、一見してそれは気づけぬものだろう。
ばさばさと翼をはばたかせて、スズメは高く舞う。くるりと体を一周させながら景色を確認する。テエンシャンはまだよく見えるほど近い。くるりと向きを変え景色を眺める。はるか先に山の群れが見える。
「あっちの方角かな」
よし、と指差して確認してからハヤブサたちの元に戻ろうとしたスズメは、南の方角から飛んでくる影に気づいた。それは翼の者。
一瞬警戒して身を硬くしたスズメだが、その姿を目で確認するとすぅっと警戒が薄れていった。翼の者もスズメに気づき動きを止めた。
スズメは不思議な気持ちを感じていた。なぜならその相手が自分の知る相手そっくりだったから。
今自分と向かうようにしているのは、ハヤブサ。いやハヤブサでないのはわかる、ハヤブサに瓜二つの翼の者。
「あなたはだれ?」
スズメの問いかけに相手は答えず、別の問いかけをよこしてきた。
「ハヤブサはどこだ?」
やっぱりハヤブサの知り合いだった。これだけよく似た顔なのだ。ハヤブサの関係者なのは間違いないだろう。
「ハヤブサさんの知り合いなの?」

「スズメ遅いな」
方向の確認にいっただけなのに妙に遅い。そうカラスがつぶやいた時、ハヤブサはいやなものを感じてすぐに飛立った。
「!スズメ」

「お前ハヤブサを知っているのか? どこだどこにいる?!」
ハヤブサの名を聞きタカの感情が高ぶる。タカが捜し求めるその相手はすぐに彼の前にと現れた。
「スズメ」
「あ、ハヤブサさん」
すぐにスズメのそばにと寄るハヤブサ。目の前にいる翼の者タカへと警戒の目を向ける。
あの時のタカをハヤブサは忘れない。それは殺意にも値する敵意。ケツァールのもとを去ったハヤブサを追いかけてきたタカは、命令ではなく己の意思でハヤブサを殺しに来たのだ。タカがここまでハヤブサを憎む理由をまだハヤブサは知らない。
「ねぇ、この人ハヤブサさんの兄弟?」
そう思うのが自然だった。ハヤブサに瓜二つのタカを前にスズメは訊ねた。妙によそよそしい空気が流れるのを感じて不思議に思いながら。
黒い翼を羽ばたかせてカラスもスズメたちのそばへときた。すぐにタカに気づき、ハヤブサに瓜二つな彼を見て一瞬驚きの声を上げた。
「久しぶりだな、ハヤブサ」
ハヤブサと向かい合う形で数メートル離れた空中でタカはにやりと笑みを浮かべながらそう言った。
「タカ……」
緊張の表情でタカを見すえるハヤブサ。
まだ驚いたままのカラスがスズメたちに訊ねる。
「誰なんだ? ハヤブサにそっくりだけど…」
「それがあたしにも」
と二人がハヤブサの顔を窺う。ハヤブサはタカから目を逸らさないまま二人に答えた。
「タカ、…私の双子の兄だ」
わずかにハヤブサの顔は強張っていたが、スズメはそれに気づけず「そうなんだ」と嬉しそうな声を上げて、タカのほうへと近寄っていく。
「ハヤブサさんの兄弟ってことは味方ってことよね。あたしはスズメ、よろしくね」
警戒のない顔でスズメはタカへと手を伸ばした。がタカはスズメに友好的な態度など見せるはずもなく、ふふんとバカにするように鼻で笑った。
「味方? 味方だと? くく、ははは、だれが裏切り者の味方だ」
「えっ」
タカの冷たい瞳に、スズメはすぐに伸ばした手を引っ込めた。
「オレはハヤブサを殺しに来た」
鋭い敵意の目でタカが言い放つ。タカの放つ異様な空気にスズメも今察した。
ハヤブサに敵意を向ける者、つまり自分の敵だと。
ハヤブサとよく似た姿、だがハヤブサとは大きく異なる者。
「ちょっ、ハヤブサさんを殺すって? そんなこと絶対させない!」
ギンと瞳に力をこめながらスズメ。ハヤブサをかばうように彼女の前に立ち、タカを睨みつける。
「スズメ!」
ハヤブサの声に振り返る代わりに手を広げて合図する。
「こいつはあたしが相手するから、ハヤブサさんは下がってて」
「ふん、だれか知らないがオレの邪魔をするというのなら、容赦しない」
スズメがタカへと飛んでいく。そしてタカのほうもスズメへと、空気を殴りつけるように拳を打ち込んでくる。
「当たらないよ」
軽やかにかわすスズメ、格下となめていた相手にあっさりとかわされたことが、タカのプライドを刺激する。
「生意気なチビめ」
「こいつハヤブサさんより遅い。いけるかも」
鼻歌交じりにスズメが笑った。ぎちぃっとタカの歯が音を立てる。
「ふざっけるな」
「そっちこそバカにしないでよ」
ドン!お互い繰り出した腕がぶつかり鈍く激しい音を上げる。「くっ」衝撃が想像以上のため、思わず呻いたのはスズメのほうだった。
「スズメ!」
「このっ」
薙いだタカの拳がスズメの肩をかすめ、スズメは肩にダメージを受ける。慌てて後方へと距離をとり、体勢を整える。その間スズメの援護に飛んできたカラスがタカへとかかるが、一撃で跳ね返される。
「うわっ」
「カラス!」
飛ばされるカラスの腕を掴み、支えるスズメ。いたたと薄目になりながらカラスはスズメを案じるように顔を見合わせる。
「カラス、スズメ、大丈夫か?」
ハヤブサが二人の状態を確認する。まだ彼女の顔には困惑があった。タカの敵意にとまどっている事実。
「ああ、平気だよ」「うん、あたしも」
三人の耳に届いたのは、不気味に笑うタカの声。バッと顔を上げると不敵な笑みで彼らを見下すタカが、腰に手を当てながら偉そうな態度で自慢げに語る。
「なめるなよ。オレはハヤブサより強い。そいつに勝ったことがあるんだからな」
タカの言葉にぴーと頭に血を上らせたのはスズメ。すぐにけんか腰に反論する。
「なっ、あたしのハヤブサさんが負けるわけないじゃない!」
なんの根拠があってそんなこと言えるのか。大好きなハヤブサの悪口を言われて黙っていられるスズメではなかったから。
声を荒げるスズメを前に、ふんと鼻息で返しながらタカの自慢は続く。己の行為を誇らしげに語ってくる。
「うそじゃない。あの時ハヤブサはボロボロになって森に落ちた。あの時に死んでいればよかったものの。まさか生きていたとはな。しぶとい奴だ」
「あの時? あの時ってまさか」
スズメとカラスは思い出す。初めてハヤブサと出会った時のことを。チャボ族の村の近くの森の中で、傷ついた翼の者がいた、それがハヤブサ。
「あたしとハヤブサさんが初めて会った時……」
「ハヤブサは森の中で傷だらけで意識を失っていたんだ」
「じゃあ、ハヤブサさんはこいつに?!」
ギッとスズメはタカを睨む。タカは怯むことなく自慢げな嫌味な笑顔でいる。
「なるほど、お前らがハヤブサを助けたっていういのか。まったく無駄な行為だな。ハヤブサは再び苦しまなきゃいけなくなったんだからな」
「信じられない! アンタそれでもハヤブサさんの兄か?!」
ぐわっと口を広げてスズメの怒りはあふれ出す。スズメの言葉にタカは反応し、タカもまた怒りの感情を露わにした。
「兄?! だれが兄だ、そいつはオレの敵だ! この世界で一番憎たらしい!」
「タカ兄、どうして、どうしてそこまで私を…」
信じられないといった瞳のハヤブサはかすかに震えていた。まだ動揺しているハヤブサ。タカの感情を理解していないまま、タカの感情溢れる言葉に現実を感じられないでいる。そんなハヤブサがますますタカをいらだたせる。
「私が裏切ったからか? そのことがそんなに許せないのか?」
まったくの見当違いだ。タカの憎しみの感情はそこからじゃない。
「くくくく、はははは」
狂ったような笑い声をあげるタカに、スズメがきぃーと怒る。
「ちょっとなにがおかしいのよ?」
「ケツァールの命令なのか? それで私をおいかけて」
ふ、と一瞬にしてタカの顔から笑みが失せる。鋭く敵意の篭った目でハヤブサを睨む。
「本気でそう思っているのか?だとしたらどこまでもめでたい奴だ。ハヤブサ、お前はどこまでもオレを腹立たせる存在だな」
「え…、どういう」
「まだ知ってないフリをするつもりか? お前はオレより先に翼を手にいれ、オレのプライドを傷つけた。それに、ワシ兄までも」
タカが吐き出す彼の本心。ハヤブサには見えた、その時初めて気がついた。タカの…双子の兄の傷ついた弱い心に。彼を傷つけていたのは自分だったのだと。無意識のうちに傷つけていたのだと、ずっと気づけずにいた。わかっている気でいたなによりも近いはずの双子の兄妹なのに、なによりも遠かったのかもしれない。
ハヤブサの心がぶれる音がした。
「私は、そんなつもりはなかった。それにワシ兄? ワシ兄がどうしたって言うんだ?」
揺れる目で自分を見るハヤブサ、タカの怒りは止まらない。まだ気づかないそれに、声を荒げる。
「ワシ兄はオレより、お前が大切なんだ。だからオレはお前がキライだ。完全にオレの目の前から消してやりてぇ!」
タカの向ける敵意、ハヤブサには言葉でそれを止められる気がしなかった。ここまで自分が兄に憎まれていたなんて、ずっと気がつかなかった己を恥じた。そしてタカが求めるのは自分じゃなく、兄ワシでしかいない。きっとタカを救えるのはワシだけなのだろう。そう思うと悲しかった。ライチョウを信じ、己の道を進むことに後悔はなかったが、兄と戦うことには心が痛んだ。いや、タカとは、たとえ自分がサイチョウを裏切らなかったとしても、いつかはこうぶつかり合う時が来たのかもしれない。これは避けてとおれなかった道なのだ。
「私にできること…」
ぎゅっと口を結んで、ハヤブサはなんとか揺れる心を抑えながら考えた。どうすればいいかを。どうしたい?私は? ハヤブサは己に問いかける。
私はライチョウ様を信じる。
光の翼を信じる。
スズメたちとともに戦うと決めた。
兄たちと戦わなければならないことも。だけど……
救いたい、私はタカを傷つけた。その罪はきっと軽くないんだ、と。
ハヤブサは顔を上げる。そしてスズメとカラスへと視線を向けて、二人の目をきゅっと見やった。
「タカ兄さん、あなたは誤解している。ワシ兄さんはタカ兄のことも同じくらいに大事に思っているはずだ」
タカへと向き直り放つハヤブサの言葉に、タカはぐわっと口端を歪ませてハヤブサへと殴りかかる。
「だまれっ! 裏切り者!」
タカにはワシ以外の言葉など届かぬし、信じることがない。特に憎らしいハヤブサの言葉などどんな慰めの言葉も嫌味でしかない。タカの打撃を受けハヤブサが呻いた。ハヤブサを守ろうとスズメはタカへと果敢にかかっていく。
「ハヤブサさんになにすんのよ、こいつ!」
タカの動きを止めようと彼の翼を掴んで睨みつけるスズメ、タカはすぐにその縛を解く様に腕を振り回しスズメを投げつける。空中でなんとか持ちこたえるスズメを支えるように彼女の背中にカラスは寄った。
スズメのダメージは大したことなかったが、彼女が攻撃を受けた時ハヤブサの顔は焦りで動いた。
スズメとカラスを睨みつけながら腕を振り上げタカは牽制する。あくまでもタカの標的はハヤブサでしかない。邪魔をするなら排除するだけだが。そしてハヤブサもわかっていた。目的は自身だと。だからこそ二人を守れるのも自分だけだと。彼女の中に決意の炎がともる。タカのほうをきっと睨みながら、手でスズメたちに合図する。下がるようにと。
「二人とも下がっててくれ。タカの目的は私なんだ。二人には関係ない」
「関係ないって、ハヤブサさん?」
背中越しのハヤブサの声に、スズメの声は不安に震えた。カラスのほうは不安ながらもハヤブサの決意を察した。
「あなたの相手は私なんだろ? 二人には手を出さないでくれ! 私が受ける。あなたの悲しみも憎しみも、私の体にぶつければいい」
「ハヤブサさん?何言って」「やっと覚悟を決めたかハヤブサ」
不安が顔に広がるスズメと、にやりと嬉しそうに微笑するタカ。カラスも不安を見せる顔ながら一人冷静を保ち、スズメの肩をそっと抱く。
「本当に私を殺せばあなたの気はおさまるのか?」
確かめるように問いかけるハヤブサの顔はさきほどまでの困惑の顔から強い眼差しへと変わっていた。
「当たり前だ」
「だったら殺したらいい。私は怖くない」
キッと挑戦的なまでの目でタカを見すえたままハヤブサはそう言う。その目には恐れがなかった。信じる強い心がハヤブサに恐れを感じさせないのだろうか。そんな彼女の目が態度が言葉が、タカを不安にさせ不快にさせる。
ハヤブサは思う。世界を救うのは自分でなくてもいいと。その意思はきっとスズメたちが受け継いでくれるだろうと。だが、タカを、兄の心を鎮められるのはきっと自分だけだ。彼の心を歪ませた原因は自分自身なのだから、だからそれを鎮められるのは自分だけだと、そう強く感じていた。言葉は届かない。彼の望みは自分を消すことなのだと。思い返せばタカとは心の底から分かり合えたことなどなかった。悪いのはタカだけではない、自分も悪かったのだ。どうしてもっと考えてあげられなかったのだろう。己の無神経さが、招いた結果なのか。
もうわかりあえないのか。あなたとも、ワシ兄さんとも……。
兄弟の絆を捨ててまで、私はライチョウ様を信じた。その道を正しいと信じた。
改めて自問する。
私は…後悔していない。
「貴様に言われなくても、そーしてやる!!」
ギンと怒りの感情で見開いた目でタカがハヤブサへと飛び掛り、目いっぱい殴りつける。激しい音が響いて、ハヤブサの体が衝撃で数メートル動く。かろうじて空中を舞っているが、体にうけたダメージは軽くはないだろう。すぐにタカは打撃の届く距離までつめて、連撃を妹の体に与える。
「お前がいなくなりゃ、オレは幸せになれるんだよ」
ドカッドカッ、とまることなくハヤブサの肉体をタカの拳が打ち付ける音が響いた。衝撃を受けるたびハヤブサの体は折れ曲がり、すぐに状態を立て直すが、それを待たずタカの打撃が彼女を襲い続けた。唾液や血液がしずくとなって何度も空に舞った。至近距離でそれを浴び続けたタカの体にはハヤブサの返り血で赤くまだらに濡れていた。狂ったように笑い声を上げながらタカはハヤブサを痛め続けた。
「ハヤブサさん! ハヤブサさんどうして反撃しないの? そのままじゃほんとに死んじゃうよ」
ハヤブサからは返事はない。ハヤブサのもとへとかけようとするスズメをカラスが肩を掴んで止める。
「ハヤブサは死ぬつもりなんだ。命をかけても救いたい、それだけハヤブサにとって兄弟は大切な存在なんだよ」
「カラスはそれでいいの?ハヤブサさんが死んでもいいって思うの?あたしはイヤだよ!たとえハヤブサさんが望んだことでも、あたしは絶対にいや」
ブンブンと首を振り、感情を伝えるスズメ。ハヤブサを思う気持ちカラスにもないわけじゃないが。
「いいわけないだろ。けど、俺はハヤブサの気持ちを尊重してやりたいよ」
「ハヤブサさんが死ねば、あのタカが救われると思ってるの? そんなこと思わない、あたしは。そんなことしたらあいつは永遠に救われないよ」
「スズメ!」
激しく翼を揺らしてカラスの縛から逃れ、スズメはタカとハヤブサのもとへと飛んでいく。そして一瞬カラスは目を閉じさせられた。謎の眩さによって。それは今自分から離れていったスズメのほうから。彼女の翼が光って見えた気がして。
無我夢中だった。スズメはただハヤブサを救いたい、彼女を死なせたくない。その気持ちでいっぱいだった。
「……にい…さ」
ボコボコに殴られたハヤブサの意識は朦朧としかけていた。しぶといハヤブサにタカはこれでとどめだと右腕に力を籠めてくりだそうとした。が、それは寸でのところで届かなかった。タカは背後から強い激を受け意識を失う。
「なん…」
その原因を確かめることが出来ぬまま、タカはハヤブサをしとめる前に気を失ったのだ。背中の傷が開いて血が噴出す。ダチョウから受けた傷はまだいえていなかった。
「くそ、オレはまた…また負けるのか」
悔しさは暗転する視界を止められはしなかった。
「ハヤブサさん!」
スズメがかけより、ハヤブサの体を抱き寄せる。うつろだったハヤブサの半分閉じた目から力をなくしていくタカが見えた。ハッとしたようにハヤブサは目を覚ます。慌てて手を伸ばしふらりと落ちていくタカを掴もうとした。
「タカ兄ー」
伸ばした手は届かず、タカは完全に意識を失くし、力を失くした翼は羽ばたかず森へと落ちていく。ハヤブサは必死にそのあとを追った。タカに痛めつけられた体はハヤブサの翼の力を押さえつける。じんじんと痛む体に無理をしてでもハヤブサはスピードを上げ追いかけた。己を憎み、殺そうとした双子の兄を。
「ハヤブサさん!」
「俺たちも降りてみよう」
スズメの側へとカラスが寄り、ハヤブサたちの降りて行った森へと遅れて向った。カラスの声とハヤブサの行動に少しぼうとしていた様子のスズメがハッとして、カラスに頷いた。
「さっき、一瞬スズメが光って見えた気がしたけど…」
それはカラスだけが見た一瞬の幻なのか。自分から離れハヤブサのもとへと走ったスズメの翼が眩く光った気がした。太陽のきらめきとは違う輝き。それは瞬き一回だけのわずかな時間だったが、もし幻でも錯覚でもなかったのなら……。当のスズメ本人はいつものスズメで、特別変わりないようだが。あの時感情が高ぶるままに我を忘れていたようにも思う。ものすごいスピードでスズメがタカにぶつかったようにも見えた。つまりタカが背に受けた衝撃はスズメの突撃によるものじゃなかろうと。
だが今はそのことを確認するよりも、落ちていったハヤブサとタカを心配するのが先だった。

普段ならもっとスピードが出たはずなのに。傷や痛みがそれを遮った。それでもハヤブサは翼の力を最大限にして、タカを追いかけた。運良く木々の間をすり抜けるように落ちていき、ハヤブサは地面にぶつかるギリギリのところでタカの体を捕らえた。
「くっ」
ぐんとした重みが腕を下へと引かせる。どす、草の上にタカをあおむけに置いた。膝をついたハヤブサは、タカの顔を確認する。閉じられた目、意識は失ったまま。ごくりとツバを飲み込んで、ハヤブサは高鳴る胸をなんとか押さえながらタカの安否を確認しようと顔を近づけた。

「ハヤブサさん」
ハヤブサが森に降りてから少し遅れてスズメとカラスが降りてきた。地面に着地して翼をしまいこむ。スズメたちの目に映った光景は、草の上に仰向けのまま横たわっているタカと、彼の横で膝をついてうな垂れるハヤブサの姿だった。ハヤブサの肩は力なく下がって、わずかに震えていた。泣いているのだと気がついた。スズメの心がずきんと痛んだ。救いたい大切な人の悲しい姿など、自分が傷つくよりもずっと辛いことだ。
「ううっ、タカ兄…」
気丈なハヤブサの目には大粒の涙がこぼれていた。タカはハヤブサの死を望んでいたが、ハヤブサはタカの死を望んでなどいなかった。そっとカラスが近づいてタカの状態を確認した。ハヤブサの様子からすでに死んでいたのかとも思われたが、カラスが確認するとわずかだが呼吸をしていた。それは弱々しく今にも途切れそうではあったが、生きていたのだ。確認するとカラスはほっとし、ハヤブサに「大丈夫生きているよ」と伝える。それはハヤブサだけでなく、スズメにも向けた言葉だった。だがカラスのその言葉にハヤブサは安堵するわけでもなく弱い声で返す。
「でも、このままじゃ、助からない」
少しずつ呼吸は弱まっていく。その姿に普段のタカの荒々しさは感じられない。弱っていく姿を目の当たりにしてハヤブサの心は不安に揺さぶられるばかりだ。
「こんなの、いやだ。私はタカ兄を傷つけて、ずっと知らずに苦しめてきたのに、こんな終わり方するくらいなら、私が消えればよかったんだ」
「な、なに言ってハヤブサ。まだ助からないって決まったわけじゃ」
慰めようとするカラスだが、優しく手を伸ばすカラスの手をハヤブサは払いのける。涙に濡れた強い感情を灯した顔でキッと睨みつける。
「あたしが、翼の力で助けてみせる」
それまで黙っていたスズメがそう言った。カラスたちが彼女へと振り返る。今スズメはなんと言ったのだ?翼の力でタカを助けると、そう言ったのか?
戯言ではなく、スズメは本気でそう言ったのか。キッと上げてハヤブサへと向けた顔、その目には強い火が宿ったように開かれていた。それは慰めでも気を紛らわせるためのウソでもなく、スズメは本心からそう思っていた。
「ムリだ、そんなこと。光の翼でなければ」
否定するハヤブサに、スズメは動じることなく答える。
「やってみる。やってみなきゃわからないじゃない。あたし、できると思うの。翼の力って傷つけるための力じゃない。みんなを守る為の力じゃないかって、だからきっと……。
あたしは、あたしの中の翼を信じる。きっとその気持ちが光の翼を呼ぶ力になると思うの」
ねぇ、カナリアちゃん。スズメは己の中のもう一人の自分に【カナリア】にと問いかける。カナリアも彼女の中で『ええ』と答えた。ライチョウは言った。この世界をまっすぐに救いたいと思い進んでいくのなら、その行く先に光の翼は現れると。光の翼はきっと答えてくれるこの想いに。スズメはそう信じていた。この世界を救う道、ハヤブサをそしてタカを救いたいとスズメは強く思った。自分の中のカナリアも同じ気持ちでいてくれると感じて。
「スズメ。うん、そうだ、きっとその気持ちに力が宿るよ。俺も信じる。スズメをカナリアちゃんを」
スズメの顔を見つめながら、立ち上がりカラスはこくりと頷いた。自分を優しく見つめる漆黒の瞳にスズメは安らぎを覚えこくりと頷いた。カナリアは『お兄ちゃん…』と小さくつぶやいて、スズメとは別の気持ちでスズメの中からカラスを見ていた。彼女の揺れる微妙な感情にスズメはまだ気づいていないまま。
「お願いカナリアちゃん力を貸して、あたしよ、あたしの中の翼の力よ、お願い」
きゅっと目を閉じてスズメは強く想った。彼女の心に同調するようにカナリアも想った。二人の何かが体のずっと奥深くで解けて一つになっていくような不思議な感覚があった。スズメの背から翼が広がる。その翼は少しずつ力を得て、やがて眩く輝きだす。
「スズメ、やっぱりさっきのは」
幻じゃなかったとカラスは再確認した。そしてハヤブサも、涙を拭わぬまま見開いた目がスズメを見ていた。眩く輝くスズメの翼を。カラスとハヤブサは目の当たりにしたのだ。
「光の翼……、スズメが…」
スズメの翼は光を纏い放ち、その光が横たわるタカを包んだ。
「あ、傷が消えていく」
さらにハヤブサの体も光が包んだ。ゆっくりと彼女の傷も、痛みも消えていった。二人の傷と同時にスズメの光の翼も翼ごとふっと消えた。
「やったな、すごいじゃないかスズメ」
カラスは純粋に喜びの声を上げる。ハヤブサのほうを向いて、彼女の傷の回復も喜んだ。
「ハヤブサも傷が治ってよかったよ」
「あ、ああ。不思議な感じだ。痛みさえもなくなっている…」
すっと体を手でなぞりながらハヤブサが答える。自分を突然包んだ光は暖かく体の奥から傷を痛みを消し去ってくれたように思う。タカのほうを確認すると目は閉じたまままだ意識を取り戻さないが、傷は完全に消えていた。改めてカラスが確認する。呼吸も正常に戻ってるようだとハヤブサに案じるように伝えた。ハヤブサもそれにほっと胸をなでおろす。そして翼が消え、ただの少女の顔に戻っているスズメへと顔を向ける。
「ありがとうスズメ。私はまた君に助けられたのだな。私だけじゃない、タカ兄さんも救ってくれて」
「え、そんなハヤブサさん、おおげさな言い方しないでよ。あたしはただハヤブサさんを死なせたくなかっただけだよ」
「いいやべつにおおげさじゃない。それに、君が光の翼だったなんて……。そうか、そうだよな。私は最初カナリアを光の翼だと思っていたんだ。私が思い描いていた光の翼の救世主と彼女が似ていたから。そのカナリアはスズメ自身でもあった。だからおかしくなんかないんだ。そうか、ライチョウ様は最初から知っていたのか」
納得したように、ぱぁぁと顔を輝かせるハヤブサ。熱の入る彼女の言葉に当のスズメは不思議そうに問いかけた。
「あたしが?光の翼?」
自覚がないのか。自分の先ほどの力を光の翼のものだと自覚してなかったのか。がそんな彼女に念を押すようにハヤブサがそしてカラスが言う。
「そうだよ、スズメ、君は光の翼だ。世界を救うのも、サイチョウを倒すのも」
ハヤブサの顔に明るさと力が戻っていた。スズメが光の翼が今自分の前に現れた。その事実がハヤブサを勇気づけた。
「すごいよスズメ!その力があればサイチョウにも勝てるよ!」
カラスも嬉しそうによいしょした。彼らの言葉に調子のいいスズメは気をよくして「そうかなー」とえへへと照れ笑いを浮かべた。
二人の言葉に、己の中に感じた眩くて暖かいもの。スズメは今自分が光の翼の救世主であることを自覚した。ライチョウを心に浮かべながら、改めて己の使命を認識する。
傷つけるだけじゃない、みなを守る力…、それが光の翼。スズメだけが持つ特殊な力。スズメの中でさらに正義の心が燃え上がった。
「行こう、スズメ、カラス。光の翼にも出会えたんだ。私たちは迷わず目的地まで進まなくては」
凛とした瞳でハヤブサは二人の背中を押し、進むように促す。
「え、いいのか? タカはあのままで」
カラスが心配そうにまだ仰向けで横たわったままのタカを見た。ハヤブサはそんな彼らをいいからとぐいぐい押した。
「タカ兄ならもう大丈夫なんだろう。このまま行ってかまわないさ」
「ハヤブサ…」
「カラス、だいじょうぶだよ。傷ももう治ったんだし、そのうち目が覚めるはずだよ。それに起きたら起きたでまたハヤブサさんに襲い掛かったら面倒でしょ」
まあその時はまたあたしが止めるけど、光の翼の力でね。とスズメはにへっと自信ありげに笑った。
「さ、いこう。目的地までまだまだ遠いんだからね」「ああ、そうだな」
スズメと肩を並べてカラスは走っていった。走り出した二人を見送って、ハヤブサはわずかに振り返りいまだ目を閉じて横たわったままのタカを見た。
「さよなら、タカ兄…」
切なく目を逸らして、すぐにスズメたちの背中を追った。
タカとは分かり合えなかったまま。できることなら、絆を取り戻したいと強く願う。でも今は、今優先すべきことは、己の選んだ道を進むこと。ハヤブサは決意新たに走り出した。



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