馬 駆ける
第十六話 ラストラン、馬 駆ける

三月某日、ギゾウ邸にて。
ギゾウのもとへとアマツカが訪ねていた。
厳しい面持ちで。それは彼自身の真剣な想いからきていた。

「お願いします!」

アマツカは恥じらいも迷いもなく、土下座に近い辞儀をしながらギゾウに請うた。
ふん、とギゾウの荒い鼻息が室内に響く。
今更、改めてそれを請う必要などない。「頭を上げろ」とギゾウはアマツカに伝える。アマツカが顔を上げ、主であるギゾウを見上げる。
アマツカの決意はギゾウもよく知るところだった。シモウメから聞いている。アマツカは勝利する為に、シモウメに肉体強化の手術をしてほしいと頼んだ。そのことでシモウメはギゾウに相談したのだが、ギゾウは渋る事もなく一つ返事で承諾した。ギゾウの返事に、シモウメのほうが少し躊躇っている様子だった。人としてなら、それは当然の反応だろう。肉体の改造など、人道に反する行為だ。それが己を高めるものだとしても、嫌悪するのは人の本能だろうか?
まったくタイプの違うギゾウとアマツカだが、根底は…同じ部類の人間かもしれないとシモウメは思った。
目的の為なら迷わない、躊躇わない心。

「お前には最後まで走ってもらう。私の馬としてな」
鋭い眼光でにやりと笑うギゾウに、応える様にアマツカもその目を見つめる。

「はい。中央東の馬として」

アマツカとギゾウ、目的は同じだが見据える先は異なっていた。
ギゾウにとってレースは、中央東区長は、通過点でしかない。その場にいない、己の障害である敵を睨む。若草区長カクバヤシ・マケンドー、青原市長コヒガシ、政界のトップである現在の総理大臣。国政への未練と執念がギゾウの原動力に他ならない。
まずは最初の壁、マケンドーを破り這い蹲らせる。不気味に目を光らせながら、ギゾウは心の中で誓った。



「カケリ、ほんとうに大丈夫なの?」
トレーニングルームから出てきたあたしを、ワタルが心配そうな顔して出迎えた。ワタルの心配していることとは、例の騒動の件。マスコミの前であたしは勝手な宣言をしてしまったのだ。

『今期の最終レースで、チャンピオン決定戦で勝利して、そして…あたしは好きな人を抱きしめに行きます!』
と。

勢いのままってのもあるけど、ああいわなきゃおさまらなかったんだ。まあ自分の首を絞めたような気もするんだけど。ひょっとしたら、あたし公衆の面前でふられて恥かくかもしれないんだもの。

「ここまで来たんだし、勝つっきゃないよ。そのために、できるだけのことをして、レースでは全力をだしきるだけ」
「そうね、ごめんなさい。余計な事言ったわね。うん、カケリはレースのことだけに集中して」
「ありがとう、心配してくれて」


その日に向けて、あたしはひたすらトレーニングに励む。おいしいごはんを食べて、モリオカさんに鍛えてもらって、ワタルと談笑したりして。確実にその日はやってくる。迫ってくる。



三月中旬の某日早朝。ついにその日はやってきた。レースの決勝当日。会場ではスタッフたちが慌しく動いている。今日のレースの最終チェックと準備に忙しい。
並立する市庁内の市長室にて、窓から会場、その周辺へと視線をめぐらせながら、市長コヒガシは傍らの秘書へと語る。

「ついに今日だねぇ。心待ちにしたよ。毎年、レース決勝では様々なドラマが繰り広げられてきた。レースはね、区長と馬と、ましてや市長だけのものじゃない。青原に住む市民達の、多くのものの想いが入り乱れているものだ。だからこそいい、だからこそ感動するんだ。誰が勝とうがどこが負けようがドラマは起こる。
去年もそうだった。そして、今年もね……」

目を細め、どこか遠い眼差しの市長。くるりと秘書へ向き、話を続ける。

「君は若草区長のカクバヤシ・マケンドーをどう思うかね?」

「そう、ですね。ぶれない信念と不屈の精神の持ち主だと聞いてますので、そのような印象を抱いております」

「なるほど、多くのものが君と同じ感想を持つだろう。
私は彼の幼少期を知っているが、当時の印象は、びっくりするくらいダメな子だという印象だったんだよ。
本当にね、家からも出来が悪いとずいぶんと厳しくしつけられていたようで、そのプレッシャーに押しつぶされそうで、自殺でもしかねないかと、他人事ながら心配していたんだよ」

「はぁ、そうだったのですか。今の姿からは、想像がつきませんね」

「そうだろうそうだろう。それが、いつからか、あんなに、…私を生意気にも見据える眼差しの男になったんだよ。一体なにが彼を変えたのか、ちょっと興味深いじゃないか…」
にやり、と市長は楽しげに笑う。さて、いよいよ始まるね、と市長は支度にとりかかる。



決勝当日AM、レーススタートまで一時間をきる。選手専用口から入場したマケンドーはカケリと別れ通路を歩いていた。観客席から響いてくる観客達の声がBGMのように通路に流れる。目を閉じて、マケンドーは今日までの日を想う。区長として、まだまだ駆け出しの始まったばかりのマケンドー。あっという間の一年だった。なすべき事はまだまだあるし、区長としてもこれからだ。仕事は山のように、やりたいことはたくさんある。
が、目的の一つの達成は目前だ。今期のレースで優勝する事。マケンドーにとっては初めてのレース。幼き頃、若草の区長になることを目指してから、レースは目標の一つだった。ここにたどり着くまで、たやすい道のりではなかったが、己の苦労や辛さはけして見せたくなかった。弱さと心の奥底にある想いは、けして誰にも見せたくはない。それがマケンドーの強さなのか、はたまた弱さなのかは誰も知るところではない。が、彼の亡き師匠はそれも弱さと言うかもしれない。そういう人だった、師匠は。
マケンドーにとっては、師匠である彼こそがすべてだった。彼は立派な人物だった。マケンドーのみならず家族であれ他人であれ厳しい男だった、もちろん己に対しても。元軍人で死地を潜り抜けてきた、戦後のこの国を生き抜き作り上げてきた尊敬すべき人材だ。恐ろしい人だったが、マケンドーが今でも尊敬しているのは師匠に他ならない。今のマケンドーを鍛え上げてきた人だ。だが、マケンドーを支えたのは師匠の存在だけじゃない。いや師匠だけではきっと、途中でくじけ、諦めていたに違いない。奈落の底をはいつくばっていた幼きあの日は、いまわしい記憶でもあるが、大事な記憶でもある。
どん底にあった十二歳のマケンドーを救ったのは、たった一人のなんてことないただの女の子だ。

師匠に容赦なく叱られ、存在を否定されたほど、厳しく指導されたマケンドー。もう二度と剣の道には戻れないと思い込んで、夕暮れ時、家路へと向う河川敷。ふと目をやると、青い草の上、気持ちよさそうに駆けていく小学生の女の子が見えた。その瞳に反射する夕暮れの空、若草の景色。迷いなく駆けていく姿に、マケンドーは顔を起こしていた。
走り終えた少女と目が合った。自分を見ていたのだと気づいた少女はマケンドーに手を振った。

レースを見にいったことを思い出した。それぞれの区のために懸命に走っている馬の姿に、己を重ねた。
そして今、河川敷を走っていた少女に…。
だが、違う、己が目指す道は違うのだと。師匠に厳しく言われた事を思い出した。人の上に立つ者は誰よりも強く厳しくあらねばならない。区長を目指すなら、馬の命を人生を預かる覚悟が必要だ。それだけではない、若草の区民達の生活を、背負っていける覚悟と度量がなければならない。
そんな覚悟は、マケンドーにはまだ足りない、そこそこの努力で家の力でなんとかできるものじゃない。ただひたすらに鍛えて己の力で得なればならない。
まっすぐに己の道を未来を信じて、迷う心を少女の走りがはらしてくれた。

「あのさ、別に変なことしてたわけじゃないから、通報とかしないでよね」
バツが悪そうに小学生の少女は自分を見ていたマケンドーにそう言った。足元を見たら裸足で、素足は汚れている。こんな姿で帰ったら、親から怒られるかもしれない。
一瞬ぽかんとしながら、マケンドーが答える。
「いや、別にそんなつもりで見ていたんじゃない。…ずいぶん気持ちよさそうに走っていたから、どんな景色を見ているのかと思って」
気になったから、とマケンドーがつぶやいた。
はあ?と少女は不思議そうに首をかしげる。何を言ってるんだこいつはといった表情で。
「なにって別に、いつもの景色だよ? ほらいつもここって夕方犬の散歩している人多いでしょ。ボール蹴って帰ってる男子だっているよ。それにジョギングしている人も多いし。たまにワンコと遊んで帰ったりもしてる」
いつもの景色?
言われてマケンドーはぐるりと見渡す。河川敷を散歩する人、仕事や学校から帰宅する人。落ちていく太陽が照らす若草の街並み。いつもの景色なんて、見たり感じたりする余裕はなかった。いつもきりきりまいでいっぱいいっぱいで、余裕のない生き方考え方。
『お前にはムリだ!』師匠に否定された己の夢。絶望し、体も精神もズタボロで、死のう…、今日決意したことだ。この世に自分ほど情けなく、いらない存在はないのだと、打ちひしがれた。そんな想いで重い足取りで帰っていたマケンドーの、ネガティブな感情を少女のなにげない言葉と行為と眼差しがはらしてくれた。

師匠が言いたかった事は、そういうことなのかもしれない。

なぜその夢を叶えたいのか。想いの根底にあること。

目が覚めた。

「ねぇ、よかったら競争する? ここで走るの結構気持ちいいよ」
よーいどんで走り出す少女。裸足で、緑の草の上を走っていく。その後姿に、吸い寄せられるように、未来へと導いてくれるような不思議な感覚をマケンドーは感じていた。

「え? ちょっあたしだけ? なにそれもー、ノリ悪いな、恥ずかしいじゃん」
一人ゴールして、草の上にぺたんと尻をつく少女。現実へと引き戻されて、マケンドーは少女へと手を伸ばす。遠慮がちに手をとって、少女は起き上がる。

「君の走っている姿に、俺は若草の未来を見た。決めた、俺は必ず若草の区長になる。そして、レースで勝利をする。師匠に、いや、若草区民に、認められる男になる。
その時は一緒に…」
先走った思いでついそんなことを口ばしってしまった。「はぁ?」ときょとーんとする少女。何を言っているのかさっぱりだ。マケンドーの現状など、この少女が知るはずもない。先ほどまで死のうとまで思いつめていた心情も、それから立ち直った経緯も。

「カケリちゃーん」

土手の上のほうから少女と同じ年頃の女の子の声がした。
「あっ、友だちだ。じゃあね」
少女の目はすぐに自分を呼んだ友だちのほうを向き、そちらへと走り出した。

「必ず、叶える」
ぐっと拳を握り締め、マケンドーは己に誓う。夢をかなえることを。その夢の一端、レースに勝利するためにはあの少女の力が必要だと思った。自分を立ち上がらせたあの少女に、夢をかなえてもらいたいと。自分勝手な感情で。
「マドウ・カケリ…」
胸元で揺れていた名札に書いてあった少女の名前。身元はすぐにわかった。カケリのことはカツに探らせ、年毎に報告させていた。カケリがどのような進路に進もうが、彼女を馬にすることはすでにマケンドーの中で決まっていた。区長として当選して、やっとカケリとの再会を果たした。


「(カケリはまったく覚えていないがな。まあ思い出してもらう必要もない。が、あいつにとっては些細な出来事でも、あの日の出会いが、俺の運命を変えた)」
通路を歩きながら、マケンドーは己の過去と対面した。じわりと掌に汗がにじむ。夢ではない。レースでの優勝、それはもうあと数時間先に、かなっているかもしれない現実。
が浮ついてはいけない。最後のレース、今期での最後でしかないが、気が抜けない最終レースだ。そして相手は因縁の中央東…オオガワラ・ギゾウだ。ギゾウとの因縁も、ここで絶ち切りたいところだ、有終の美でもって。

「それに…、アマツカ」
通路の向かう先から、マケンドーのほうへと歩いてくるのは中央東の馬…アマツカだ。カツンカツンと鋼鉄の義足を鳴らして、アマツカはマケンドーの前へとやってきた。以前、河川沿いで対面した時のような緊迫した空気が二人の間に流れる。
にこり、と天使のような爽やかな笑顔で、アマツカはマケンドーへと挨拶をする。

「久しぶり、だね」
マケンドーは笑顔で返さない。眉間にしわ寄せた厳しい面持ちのまま、アマツカを見やる。
「お前の仕業だな、アマツカ」
例の件…マケンドーとカケリの熱愛疑惑をマスコミに流したのは、アマツカに違いない。以前あの写真でマケンドーを脅した経緯がある。誤魔化すでもなく、「そうだよ」とアマツカは答えた。
「君のとこの秘書が、いろいろと動いていたようだから、先手を打たせてもらったんだ」
「お前の主治医のシモウメのしでかしたこと、やはりオオガワラがもみ消したのだな」
「そんなことをしても誰も幸せになれない。死んだ人間は生き返らないし、それに、病の発症者はボクで最後だ」
天使病の発症者はもういない。亡くなった元天使園の子らに遺族もいない。今更蒸し返していい事件ではないとアマツカは言う。
「なるほど、お前はすべてを知った上で、オオガワラの馬として走る道を選ぶというのか」
哀れみの眼差しなどなかった。マケンドーはアマツカを宿敵として睨む。そのことが、アマツカにとっては、嬉しかった。そんな相手だからこそ、ぶつかってみたいと願う。

「そのためにカケリの心すら利用したのだな。お前の仕業だと知れば、アイツがどう思うか」
だけどマケンドーはカケリにはきっと言わない。アマツカはそう確信していた。言えばカケリはショックを受けるだろう。マケンドーはカケリの心の負担になることは絶対にしない、とそう確信していたから、アマツカは焦る素振りはない。冷静に笑顔で答える。
「利用ってだけじゃないよ。ボクは背中を押してあげたんだよ。カケリが好きなのは君だからね、マケンドー」

なぜこいつは、そんなことを平気な顔して言えるんだ?
本気で言っているのか、それとも気づいていてそう言っているのか?

カケリの想いを知っているからこそ、マケンドーはむかついた。
「アマツカ、お前はよっぽどカケリのことをわかっていないようだ。じきにレースで思い知るだろう。カケリはお前に負けん。もちろん俺も、オオガワラには負けん」
対峙していた二人は、背を向け、それぞれのステージへと向う。



レースのたびに前にしたコースのゲート。ここに立つのも今日で最後になるんだ。いつもの場所だったけど、いつも違っていた。いつも違う相手と、違う気持ちでここに立って、競う相手としてここで出会った。ウミコさんとも、ワタルとも。各区の馬の人たち。あたしと同じ、馬の人たち。同じ立場だけど、いろんな気持ちがここにあった。
そして、今は……

「アマツカ君…」
横目で君を見る。アマツカ君、あたしの大好きな人、同じ馬だけど、いろいろあったよね、君とは。あたしは君を助けてあげたいと思ったけど、君はそんなこと望んでなかった。君は君の意思で中央東の馬になって、あたしと戦う道を選んだ。それはあたしも同じで……

「カケリ、もうすぐスタートだね…」

「うん、そうだね」

もうじきカウントダウンが始まる。歓声もますます強くなっていく。ゆっくりと緊張が高まっていく。

「心配じゃない? マケンドーのこと」

「? 心配? なんで、心配するの?」

「あの人が、なにもしないままだと思う? レース中にマケンドーの身になにが起こるかわからない。
カケリ、トラップに巻き込まれて、ケガをしないように気をつけて」

一瞬心臓がびくんってはねそうだったけど、落ち着けあたし。マケンドーのことなんて、なにも心配する必要なんてない。アマツカ君の言葉に、あたしは惑わされない。
「ありがとう」とだけ答えて、足の裏で、冷たい地面を感じながら、じんわりと滲んでいく汗で足の裏をなじませていく。

「カケリ、ボクは負けない」

「あたしだって、負けないよ、アマツカ君」



『皆様、大変長らくおまたせしましたーー! ついにやってきました、今期のチャンピオンが決まる決勝レース!
前年度のチャンピオン中央東と、今期の新鋭若草、雌雄を決する日がやってまいりました!
最後のレースは、それぞれの区のバーチャル映像のコースという演出となっております。もちろんこの映像は馬のみならず、観客のみなさまにもお楽しみいただけます!』
へ、ええ、なに、なんだって?
最終レースはいつもと演出が違うのか。まあバレンタインがあんなだったし、なんでもやっちゃうのね。

そして、カウントダウン。

ゲートが開いて、あたしは、駆ける。

コースの先に巨大な扉が待っていた。そのまま駆けていくけど、扉が開かない!?
びたんと手で叩いたけど、ダメだ扉は固く閉ざされている。隣のコース…透明な壁の向こうに見えるアマツカ君もまた、閉じられた扉の前に立っていた。
どういうこと? マケンドーが解除に手間取ってる?

『最初のトラップは、馬と解除者がタイミングを合わせることで、解除できます! さあ、心を一つにしてください! 故郷への想いを、勝利への執念で、勝利への扉を開いてください!』

「タイミングを合わせるって…。ぐぬぬ、どうすれば」
両手でふんばって巨大な扉を押すけれど、びくともしない。マケンドー、なにやってるの? まさか…
スタート前のアマツカ君の言葉を思い出す。マケンドーの身になにかあったの?



扉トラップの解除は、馬が扉に力を込めたタイミングで解除者がスイッチを押せば解除できる仕組みだった。がモニターに映る馬と扉の間にぼかしがかかり、タイミングが測りづらくなっている。互いの確認がとれるはずもなく、超能力がない限り無理だろう。扉に馬の力が一番伝わった瞬間に、スイッチを押せばいい。解除者の手元のランプが赤に光る、ミスということだ。が何度か押しているうちにタイミングは合うだろう。ギゾウは楽観的に考えていた。焦る必要はない。なんせ対戦者のマケンドーに先にトラップを解除される心配はないのだ。なぜなら、そのマケンドーは隣で気を失い、操作ができる状態に無かった。「くくく」と卑しくギゾウは笑う。解除者の部屋はマケンドーとギゾウの二人きりだが、監視用のカメラはもちろんある。室内で異常があればスタッフが飛んでくるはずだが、カメラの位置からはマケンドーが考え込むように椅子に腰掛けているように見えるだけで、気を失っているようには見えなかった。肘をついてモニターの前に突っ伏しているようにマケンドーは意識を失っていたからだ。
こうなったのは、もちろんギゾウの罠にはまったからだ。

レース開始前に、ギゾウは胸元にハンカチを忍ばせていた。一見唯のハンカチだ。だがそれには強力な毒薬が仕込まれていた。もちろんそれを作ったのはドクターシモウメだ。ハンカチにしみこませただけではなんの効果もないが、ギゾウが手汗を拭くように見せかけて、手の中でハンカチをもんだ。その動作によって毒薬は動き出し、周辺の人間の意識を奪う。ギゾウは事前に解毒剤を打っていた。対マケンドー用にシモウメに作らせたものだ。命を奪うほどの毒ではないが、一定時間体の自由を奪い去る。
楽勝だ。
横目でマケンドーを見やりながら、スイッチを押す作業を繰り返すギゾウ。これならなにもアマツカの改造をするまでもなかったが、まあ来年度のレースもある。

「く、くくく」

「?!な」
聞こえるはずのない声に、ギゾウは思わず隣をバッと振り向き見た。
気を失っていたはずのマケンドーの声から聞こえてきた憎々しい笑う声。ふてぶてしく下から睨みつける目。

「お前のことだから、なにかしてくるだろうと思ってた。…なんの薬か知らんが…、俺に毒など無効だ」
「な、なんだと?」
シモウメが作ったばかりの新薬だ、解毒剤が世に出ているはずがない。
もちろん毒への対抗薬などマケンドーは打っていない。幼い時から師匠の厳しい訓練の中で、毒への耐性をつける修行も受けてきた。少しずつ毒を得て、じわじわと体に毒を慣れさせる。当然危険な修行だったが、そんなことで超人になれる者等ほんの一握りいるかいないかだ。不屈の精神を得ても、マケンドーの体は超人ではない。よって、マケンドーを立ち上がらせるのは、その不屈の精神力でしかないのだ。ようするに我慢しているだけ。汗の浮いた額、ガクガクと震える体、それでもって虚栄をはっているのだ。
一瞬ギゾウは焦ったが、マケンドーの状態を見抜き、すぐに余裕の態度に戻る。その体ではいつものように冷静にトラップの解除は行えないだろうと。



「ぐぬぬぬ…」
押せども押せども扉は開かず。
『おおっと、先に扉を解除したのはチャンピオン中央東ー!』
ズオーンと重々しい音を上げて、隣のコースの扉が開いた。スタートダッシュで開きが出てしまう!
走りではアマツカ君の鋼鉄の義足に、まともに敵うけがない。…ってここからいきなり諦めモードはまずい。首をふって、あたしは「うおおーー」と扉に力を込める。ぐん、と前方へ押される力を感じた。
『続いて若草も扉解除成功ー。レースはここからがスタートです!両馬はそれぞれ別の景色を見ていることでしょう』

! これって。
バーチャル映像は、まさに若草の景色だった。若草の観光名所に、主要施設に、それから商店街やら区民が営む街の中、まるで応援するように、というか…

『がんばってーー』
バーチャル映像だけど、リアルな空間のようで。だってそれは本当の景色だし、声援をかけてくれる人も若草の住民の人たちだ。

「ありがとう、がんばる!」
映像の人たちにグッと拳で応えて、あたしは走る。ぐんぐんと流れていく若草の景色。あたしが生まれた町、マケンドーが想う町、あたしたちだけじゃなくて、たくさんの人がそこにいて、それぞれの想いやドラマがある。
あたしも、あたしの想いのために、駆ける!

『速い、速いぞ、さすが鋼鉄の天使! トラップも次々と解除していきます。中央東の声援も勢いを増すばかりです!』

天使君、アマツカ君。横目で前方へと離れていくアマツカ君の背中を見た。君もまた、バーチャル映像の中、でもきっとすごく故郷の空気を感じながら走っているんだろうね。

進む先で、勢いよく水が噴出す。あたしはマケンドーを信じてただ走る。水の上に鉄の板がかかって、あたしはその上に飛び乗ると…
「うわっっ」
ばしゅんと水の勢いであたしは板ごと宙へと飛ばされる。なんとか足は板の上についてて、落下は免れたけど。
「うわぁ、すごい」
まるで空を飛んでいるように、若草の町を空から見渡せる。これって事前収録なのかリアルタイムなのかわかんないけど、動いている人、走っている車、町って生きているんだってことを実感させられる。
うん、あたしもその中のひとつなんだよね。改めて、そんなことを思う。
鉄板はコース上に着地する。ジャンプして、あたしは走りを続行する。
隣のコースのアマツカ君の背中を斜め前に見ながら、走る。景色は見覚えがある場所になる。懐かしい、小学校に中学校だ。通学路に、寄り道した駄菓子屋。遊びに行ったいろんなところ。それに、思い出の河川敷。
アマツカ君と出会ったその場所で、バーチャルな景色だけど、また同じ場所でアマツカ君と走ってるんだね。

今、アマツカ君はどんな景色を見ているのかな。アマツカ君の顔がわずかに動く。
動きが、わずかに鈍ったような…。少しずつ少しずつ距離を詰める。
アマツカ君の横顔、横目であたしを見て、あたしもアマツカ君を見て、そして前を、進むべきコースを見た。

音が遠ざかり、景色が狭まって、止まらない筋肉、長くも短い…あたしにとって最後のレース。

『ゴーール!』

「うわ、あ、うわっと」
ずざっとゴールしたことに気づいたのは、アナウンスの声と滑り込んで地面にこすれた衝撃のおかげ。少しずつ感覚が戻ってくる。膝をついて立ち上がる。歓声がこんなに大きく聞こえてくる。ああ、あたし走り終えたんだ。
アマツカ君は?
横を見るとアマツカ君が膝をついていた。
一体どちらが先にゴールしたんだろう。ゴールの瞬間真っ白で、ほとんど記憶にない。

『優勝若草ぁーーーー!!!』
「えっ、勝ったの? よっっしゃーー」
勝利への喜びが、この瞬間湧き上がってくる。思わずガッツポーズ。
「おめでとうカケリ」
その声にはっとなる。膝をついたままのアマツカ君があたしのほうへと、天使のようなだけども少し切なげな笑顔であたしにそう言ってくれた。
「アマツカ君…」
あたしはアマツカ君のほうへと向う。そして、アマツカ君をぎゅっと抱きしめる。宣言した事を実行、恥ずかしさどうこうなんて感情がびっくりするほどなくて、レースの魔力のおかげかもしれない。
「悔しいよカケリ、勝ちたかった、でも勝てなかった。だけど、嬉しいんだ。ボクは君を知ってからずっと、君と一緒に走りたいと夢見ていたから。
…ありがとう」
アマツカ君はそう言って目を閉じた。抱きしめ返してはくれなかったけど、それがアマツカ君の答えなのかもしれないけど、嬉しかったのはあたしもだからね。
アマツカ君、君に出会えて本当によかったって、本当にそう思うから。



トラップ解除ルームから出てきたマケンドーをカツがすぐに出迎えた。事情を知ってかどうなのか、カツは手短に説明しながらマケンドーの腕に注射をする。
カツが打ったのは解毒剤だ。シモウメから話を聞いていたらしい。もちろん用意したのはシモウメだ。
「マケンドー様、大丈夫ですか?」
強い毒ではないが、さすがに体調が悪く脂汗が額に滲んでいる。
「平気だ。この程度、師匠の仕置きと比べたらかわいいもんだ」
にやっと不敵に笑いながら、マケンドーは自力で歩く。場内設置のモニターに映るゴールでアマツカを抱きしめるカケリの姿を見ながら、目を細める。

「マケンドー様、よろしかったのですか?」
「アイツには俺の夢を叶えて貰った。この一年つき合わせて馬をさせて、若草のレース優勝という夢を叶えてくれた。十分すぎるだろ。
それに、カケリはアマツカが好きなんだろ、ならば俺の想いは封印するしかない」
それは諦めの言葉ではない。満足げな笑みを浮かべるマケンドーを見て、カツも微笑む。マケンドーの想いの一つは今日報われたのだ。その事実にカツも安堵する。

「さあ、表彰式に向うぞ」
「はい」



表彰式…、緊張のあまりあたしはろくに覚えていない。まあメインはマケンドーだったし、あたしはほとんど立っていただけ。簡単なインタビューを受けたけどもう緊張のあまりまともに答えられたかどうか。裏返った声で「がんばりました!」て言ったくらいで。恥ずかしかった、なに早々黒歴史になってるよ。

カツさんとマケンドーと一緒に選手側の通路を歩いていると、前方にアマツカ君と…見慣れない中年男性がいた。
「アマツカ!」
先に声をかけたのはマケンドーだったから、あたしが驚いた。呼ばれてアマツカ君もマケンドーのほうを見た。
「マケンドー、さっきドクターから聞いたけど、体…大丈夫?」
アマツカ君の隣の男の人が会釈をする。
「ああたいしたことはない。お前に心配されるようなことじゃないしな」
「ちょっちょっと、せっかくアマツカ君が心配してくれているのに、なんなのその態度ってえ?なに体って、マケンドーどっか具合悪いの?」
「別になんでもない、気にするな」
けろっとしてるし、なんでもないんだろうけど。でもその態度失礼なんじゃないの?
「そう、ならよかった。君はこれからも区長としてやらなきゃいけないことがたくさんあるだろうし、ボクとは違うんだから、体は大切にしないといけないよ」
「アマツカ君? まさかどこか悪いところでもあるの? 天使病が悪化したとか」
アマツカ君の顔色がよくないから、不安になった。レースでアマツカ君が負けたのも体調のせい?
勝利しても、アマツカ君の容態を思うと喜べないよ。
「ううん、天使病の症状は足を切ってから治まっている。だけど、ボクの体は…」
「アマツカ、実はやってないんだよ」
突然口を開いたアマツカ君の隣にいた男の人に注目する。
「え? ドクターどういう…」
「君が望んだ改造手術だ。君の体にはなにも手をつけていない」
どういうことだろう、二人の会話がさっぱり理解できないんだけど。
「そこまで私も人でなしにはなれない。だから安心するんだ、君の体はなんともない。今後も義足のメンテと身体検査は必要だが…、それも」
そう言ってドクターと呼ばれた男の人はカツさんのほうを見た。
「今後の事は彼にお願いしてある。私は君の主治医を続けられないからね。
私は、自首するつもりだ。君やテンカワの運命を狂わせた罪が償えるとは思わないが、そうするしかないと思う」
「ボクも一緒に行きます。ボクも罪を犯しました。故郷の為とはいえカケリやマケンドーたちを…」
そう言ってアマツカ君があたしのほうを切ない眼差しで見つめたから
「ま、待ってよあたしは別にアマツカ君のこと」いろいろショックだったこともあるけど、アマツカ君が思いつめる事なんてあたし望まないよ。
だけど、アマツカ君は首を横に振って、あたしの制止を拒む。
「すべてを仕組んだのはオオガワラだろう。お前たちはオオガワラを庇って自分たちだけが罪を背負う気でいるのか?」
あたしの前にすずいと立ってマケンドーがドクターとアマツカ君に問う。
「そういうつもりではない。だが事を急かないでほしい。あの人を今失脚させてもそれに代わる人材がいるわけじゃない。中央東の混乱は青原市全体にも影響を及ぼす危険がある」
「あんな男でも中央東にとっては唯一無二の存在か…。俺とアイツの因縁も、まだ簡単に終われそうではないな」
ふーとマケンドーが息を吐きながらそうつぶやいた。でも眼光は不気味にぎらーんと輝いてる?


「カケリ…」
アマツカ君があたしへと向きかえる。
「レースの最中でも、ボクはずっと君のことが心の隅でひっかかっていた。君を傷つけたこと、後悔していたのかもしれない。そのことが心にあったから、体に影響して、ペースが乱れてしまった。
良心を捨てられていたら、ボクは勝てたはずなのにね」
「アマツカ君…」
あたしのせいで負けたなんて、心が痛みそうだけど、やっぱりアマツカ君は優しい天使みたいな男の子だったんだ。そのことが嬉しくて目頭が熱くなる。
「アマツカ、それはなにより大切なものだ。なにがあっても捨てるなよ、この先も絶対にな」
う、マケンドー、あたしとアマツカ君の世界に割り込んでこないでよ、少しは空気読んでよ。
「うん、そうだね。肝に銘じとくよ。じゃあね、マケンドー、それからカケリ。二度と会うこともないかもしれないけど」
アマツカ君の口から出た永遠の別れを示唆するそれを、あたしは瞬時に否定する。
「アマツカ君! また会うよ、会いに行くよ!」
アマツカ君はそれにうんとは答えなかったけど、あの優しいエンジェルスマイルで去って行った。



「では私は車の準備に」
とカツさんが先に駐車場へと向った。通路にはあたしとマケンドー二人だけになった。

「カケリ、この一年よくがんばったな」
「う、え…」
マケンドーがあたしを褒めるなんて、優しい言葉をかけるなんて、優勝したからなのか、これが最後になるからなのか。いつもなら「優勝したからといって気を抜くな」なんて言いそうなものなのに、そんなことは言わないから、なんだか切なくなりそうだよ、なんでか。
「お前には心の底から感謝している。改めて礼を言わせてほしい。今日まで俺に付き合ってくれてありがとう」
笑顔であたしに手を差し出すマケンドー。それは作り物の顔じゃなくて、本心なんだってわかった。
その手をぎゅっと握り返す。
突然マケンドーに連れて来られて、馬にさせられて、なんやかんやいろいろあったけど、だけどあたしはこの一年馬になったこと、後悔してない。
「あたしこそありがとう。馬なんて貴重な経験させてもらって…」
「ふっ、なんだそれは」
「ちょっ笑うなよ!」
恥ずかしいじゃないか。
「お前の行く先が輝かしい未来であることを願っている。カケリ、元気でな」


マケンドーとの別れ、そしてあたしは…念願の自由を手に入れた。

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