時折思い出す。
あの大きくてごつごつとした手に、頭を撫でてもらった感触。
「そうか、えらいぞ」
褒めてもらった言葉。もうずっとずっと昔の記憶、あれは六つになる前くらいだった。
厳格で近寄りがたい当主である父。怒られまいと必死だったあの頃。
難しい雷術の書を読む事ができるようになったあの日に、父に褒められた。
それは記憶が薄れるほどの遠い昔の記憶なのに、ティルテュの中では色濃く残る記憶だった。
褒められたのはその一度きり、父が望むのは高い才能を持つ聖戦士だ。それは彼女の兄であるブルームに他ならない。女であり、二番目であるティルテュの存在は彼よりも軽んじられる。幼いながらティルテュはそれを痛感していた。
どんなに努力しても、兄には届かない。トードの血を引くティルテュは、一魔道士としては優れた存在だったが、フリージ家の中では、力を持たない薄い存在だった。
いつからだろう、その気持ちを封印するようになったのは……。
悲しいのに夢見てしまう。今でも、あの大きな手に、褒めてもらいたいと、愛してもらいたいと。



「――どこらへんなんだろう…」
薄暗い山の中、ぽつりとティルテュは立ち止まる。かなり前にアゼルたちとはぐれて、デューともはぐれて、レックスはたしか山を降りていった気がする。
山は登り道を行けば、そのうち頂上にでるだろうと思って、どんどん進んでいたのだが、その結果どうも道に迷ってしまったらしい。気がつけば道らしきものはなくなって、引き返そうにもどこから来たかわからなくなってしまった。
「アゼルーー、エーディーン!」
とりあえず声を上げてみるが、これだけ離れてしまえば声など届かないかもしれない。
すうーと息を吸い込み、ティルテュは声を上げる。
「ブリギッドーー、デューくーん」
ティルテュの声の後には返事はなく、さらさらと静かに風にかすれる木の葉の音が聞こえるだけ。
ブリギッドを探しに来たのに、自分が迷子になるなんて…、そんなことになったらみんなに迷惑をかけてしまう。ぷるぷると首をふって、ティルテュは自力で解決しようと誓い、再び山道を進み始める。
なんとか道らしきものを見つけて、それを頼りに進みだすが、それは段々と心許無くなっていき、足場は危険なものになっていく。
「!っきゃあぁ!」
日当たりの悪い湿った地面に足をとられて、ティルテュは滑落した。足をすりむきながら、急な斜面の途中、無我夢中で斜面から突き出して生えた木へとしがみついた。足はぷらぷらと宙に揺れる。下を確認する余裕はないが、ぱらぱらと落ちていく石や葉の音がすぐ下で聞こえない辺り、結構な高さだと思った。
「くっ…うそ…」
ぶらさがりでしがみつく手がぷるぷると震える。だれもいないこんな場所で、こんなドジをするなんて…。恐怖でパニックになりそうなティルテュの脳裏に、ある人の姿が映る。
「助けて…」
届くはずもないのに、遠い場所にいるその人に救いを求める。
「(お父様!!)」

「おい、なにやってる!」
頭上から聞こえてきたその声に、ティルテュは顔をあげた。驚いたせいで、しがみついていた手がずり落ちる。
「やっ」
「ちっ」
一瞬掴むものを失ったティルテュの腕を、すんでのところで掴んで引き止める。
伸びてきた大きくて逞しい手は、当然のように父ではなく、山を下ったと思っていたレックスのだった。
「レックス…?」
「くそ、めんどくせぇ」
一人毒づきながら、レックスは木の根元で力んで踏ん張りながら、ティルテュを引き上げた。
乱暴な手つきながらも、レックスは無事ティルテュを引き上げて、その体をぐいと抱きかかえた。背中に感じる圧迫感、大きな手のぬくもりが、あの頃の父を瞬間思い出させる。それだけでなく、レックスに抱きしめられている現状に、ティルテュの体温は上昇する。
「あっ、あの…」
背中にあったレックスの手は、すぐに肩を掴んで、と思うとがっと乱暴に引き剥がされる。
「あ、ありがとうレックス」
すぐに顔を背けられ、背中を向けて立ち上がるレックスに、慌てて声をかける。が、レックスは相変わらず無愛想に、返事を返すこともない。ティルテュの心の中は感謝の気持ちよりも、申し訳なさでいっぱいになった。迷惑をかけて、またレックスに嫌われたのだと、自己嫌悪に陥る。
これ以上嫌われたくないのに。
「ごめんなさい」
「うるせぇ」
振り返らないままレックスは歩き出す。膝についた土汚れを完全にはらえないまま、慌ててティルテュは立ち上がる。遠ざかっていく背中が怖くて、とっさにレックスの服の裾を掴んだ。
「待って! 置いてかないで!」
レックスの後姿に父の後姿が幻影で見えて、それに恐怖した。
「置いていくかよ。お前になにかあったら…アゼルの奴がうるさいからな」
相変わらず振り返らずぶっきらぼうな物言いだったが、足を止めレックスが答えた。もっと冷たい反応を覚悟していたティルテュは少し安堵して、怒られる前にと、慌てて服を掴んでいた手を離した。
ゆっくりと山道を歩き出したレックスのあとをティルテュは歩いた。気まずさは晴れないが、それでも幾分か救われた。先ほどの幻影を思い出して、ティルテュはハッと気づかされる。
「(ああ、そっか。レックスはお父様に似てるんだ。…だからあたしはレックスを好きになったんだ…)」


「お姉さま…お姉さま!」
レスキューの杖をぎゅっと強く握り締めながら、エーディンはブリギッドを強く想う。
「だめ…、この近くにもいないわ」
「エーディン、そんなに力まないで。ブリギッドならきっと無事でいるはずだよ」
恋人の体を優しく抱きしめながら支えながらアゼルはいたわる。がエーディンはそれに耳を貸さずふるふると首を振る。
「私、胸騒ぎがするの。…なんだかとても不安なの。…さっきから体が震えてきて…」
「杖を使った作用じゃないかな。エーディン少し休んでいこう」
「いいえ!」
強い眼差しでエーディンはアゼルのすすめを拒む。
「姉様の身になにか起こったのだわ。早く見つけてあげないと」
エーディンは思い込んだら突っ走ることがある。そうなったら周りがどういおうが聞きはしないだろう。それが最愛の双子の姉ブリギッドに関することならば。
「優しいなぁエーディンは。ボクは何度ブリギッドに嫉妬すればいいんだろう。まそんなところも含めて愛しているんだけどね…。あっ、エーディン待って!」
一人突然駆け出したエーディンのあとを慌ててアゼルは追いかけた。


エーディンの不安は…、恐ろしい事に現実となっていた。
その恐ろしい目にあっていたのは当のブリギッドではなく……
「キヒヒヒヒヒーー」
気狂ったような奇妙な女性の笑い声が森の中に木霊する。
その声に激しく警戒しながら、レヴィンとマーニャは木や岩陰に身を潜ませながら武器をぎっと握り締め息を潜める。
ときおりギランと光りながら走る物体あり。それは先ほどの奇声の主の手より放たれたものだ。
「く、くそ、なんてこったい…」
とんでもないことになってしまった。今さら後悔しても遅すぎるのだが、もっと早く気づけていれば、いや、あれから逃げ回らずにちゃんとマークしていればよかったのだ。
「(ああ俺のバカん…)」
己を責めるのは後回しにしないか。それよりも現状をなんとかしなければ。ごくりとツバを飲み込み、神経を集中させる。破壊の音があちらこちらで聞こえる。例の主は、今とんでもない状態になっているのだ。
「どうする。…なんとかして止めないとな。多少手荒なことになっても仕方ない」
仲間相手に、しかも女性相手に暴力をふるうなどレヴィンは許せないことだと思っているが、いやそんな気遣いは無用な相手であることもわかっている。なんせあの熊よりも頑丈な女性なのだから。
「ブリギッドッッ」
奇声を発しながら、イチイバルで暴れまくり破壊活動をしまくっているのはブリギッドだった。なぜそんなことになったかというと、時間は少し遡る。
また例のごとく「腹減った」を連呼するブリギッドはすっかり熊肉を食し終えて、山の中を食い物探してうろついていたらしい。そこでブリギッドが見つけたのが怪しげなキノコであった。それは見るからにどくどくしいキノコで実際毒キノコであったわけだが、そんなことは知らないどころかおかまいなしに食べたブリギッド。大量に食べた後、異変が起こる。ブリギッドを探しに行ったレヴィンたちが食い散らかしのキノコを見つけて青ざめた時は遅かった。すでにバサーク状態にあり、聖なる弓で無差別に攻撃するリミッターの外れたブリギッドがそこにいた。当然会話などできる状態にない。イチイバルで容赦なく狙われれば本気で命などない。慌ててレヴィンとマーニャは逃れるが、いつまでも逃げているわけには行かない。放置しておけば自分たちの命だけでなく、このシレジアのかけがえのない美しい自然まで暴神となったブリギッドに破壊されつくされてしまうのだ。
「なんとか止めないと…」
「レヴィン様、ここは私がおとりになりそのすきに」
「いや、ダメだ。マーニャの強さは俺だってわかってるが、ブリさんはウルの直系だ、並大抵の強さじゃない。その上キノコで理性がぶっとんでいるようだし、おとりなんて無意味だろう」
レヴィンから知らされずともマーニャにもブリギッドの強さはわかっていた。全力でかかっても歯が立たないだろうことを。それでも主を守る為に動かねばと思うのが騎士の性。悔しく歯噛みするが、ここはレヴィンに従うしかない。はたしてレヴィンはあの暴れ女海賊をどう制するつもりなのか。
十メートル圏内で激しい破壊音に鼓膜を、肌を振るわせられる。
「(超こえーー!!)」
レヴィンは内心ガクブルだった。ラスボスに挑む勇者の心境はこんなものだろうかと、思うほどに、激しく胸の太鼓は連打を続けている。しかし逃げ回るだけではいけないわけだ、いつかは止めなければいや、早いうちに止めねば、破壊神はすべてを壊しつくしてしまうだろう。シレジアの王子だからとかそんな立場的なものをおいといても、人として、あれを見過ごすわけにはいかないと思う。
愛すべきこの大地を守るんだ。
「風の加護で、どこまで耐えられるかはわからんが、…いくしかない」
すうーとゆっくりと呼吸をしながら、どきどきを静める。完全に静まりはしない、戦いの最中、リラックスなんてできるはずがないだろう。適度な緊張感を保ちたい、そして冷静な精神を持つて。
流れる風のようにレヴィンは柔らかい苔を蹴りながら立ち上がる。その目線の先には猛獣いや暴獣と化したブリギッドがいる。血走り焦点の定まらぬ目の、黙って佇んでいればきっと絵になる美人だろうにのブリギッドを見据えながら、レヴィンは固く誓う。
「ブリギッド、俺が目を覚まさせてやるからな。ちょっと痛くても勘弁してくれよな」
「ギギギギ…」
猛火に焼かれ苦しむ人の悲鳴のようなうめき声を上げながら、正常でないブリギッドが光り輝く弓を引く。
キィンと光り眩く放たれる聖なる矢、風の精を纏わせて、レヴィンは高速の攻撃をかろうじてよける。目で見るものじゃない。人間の限界超えた先の、スピードの世界。今ココに立ち入れるものは対峙するレヴィンとブリギッド以外にいない。
「なんてスピード、とても追いつけない」
目を細めながら、光景を見守るマーニャ。銀の槍を握り締め、立ち入れない世界になにもできない己が歯がゆい。レヴィンを守らねばならないのに、己が参戦したところで足手まといにしかならないだろう、それほどの相手なのだウルの化身でもあるブリギッドは。
森の中を昆虫のようにレヴィンは舞う。一瞬でも気を抜けない、止まれない。風の加護を纏うレヴィンのスピードについてこれるものはそうそういないのだが、凶暴化した限界超えたブリギッドはその動きを完全にとらえている。
何度も襲い来る矢を、風たちの力によってギリギリのところでそらしかわしながら、攻撃の風魔法を放つ。が、強化ブリギッドには魔法も肌表面に傷をつける程度で、その動きを封じるには至らない。ブリギッドが強くなりすぎていることもあるが、やはり仲間に向けて攻撃を放つということに抵抗があるレヴィンの心も影響していた。
「なんてスタミナだよ、とっとと決着つけないと、さきにこっちがばてちまう」
汗が浮き始めたのは先に疲労を感じ始めたレヴィンのほう。長期戦になれば、敗北、いや死が待つだろう。
「スリープの術でもあればいいのに」
あってもレヴィンには使えない。ハイプリーストのクロードなら使えるだろうが、ここにいないし呼ぶ時間もないだろう。
『賢者ですらないお前にはむりでしょうねぇ』
空耳か幻聴か、嫌味ったらしいマイオスの声が聞こえた気がしてレヴィンはムカッとなる。
だが己の力量不足は否定できない事実。賢者であればスリープやワープの術を用いて、あの凶暴な相手も危険も少なく抑えることができるだろう。
ないものはしょうがない。現状で可能な事を試すべきだろう。
「お姉さま!?」
悲鳴のような女性の声。動きながら横目でレヴィンはその主を捕らえた。
「えっ、エーディン!?」
なんでここにエーディンがいるんだ?!
驚きながらも、そのわけを聞くより先に彼女を避難させなければ。レヴィンは素早くエーディンの側まで走る。
「どうしてあなたとお姉さまが戦って」
「悪い、ここは危険だから」
身を屈めてエーディンを姫抱っこして避難させるレヴィン、だが、意外にもエーディンが重くずしっと両腕と腰に負荷がかかる。
「(お、おも…)」
「きゃっ、レヴィン? 一体どういう」
「黙って、今は逃げる!」
ちらりと背後に目線をやって、ブリギッドとの距離を確認しつつレヴィンはエーディンを抱えてブリギッドの攻撃圏内から逃れる。木々の後ろに身を隠して、エーディンを降ろす。
「レヴィン、お姉さまの様子おかしかったわ。なにがあったの?」
息を整えながら、己を見つめる金色の瞳を見つめる。
「今ブリギッドはバサーク状態にある」
「えっ、どうして?」
「それが、ブリさんヘンなキノコ食っちゃったらしくって…」
とレヴィンがエーディンに説明している最中、
「レヴィン! ボクのエーディンになにしている?」
赤い髪を揺らせながら、背後に鬼夜叉を背負ったようなアゼルが現れた。
「またややこしいのが現れるし」
ゆっくりわけを説明している時間はない。すぐ側にバサークブリギッドが迫りつつあった。


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