恋愛テロリスト
第九幕 砕ける心 3
あの声が問いかける、あたしへの究極の選択。
『やるのか?黙ってやられんのか?どっちだ?』
その二択しかないのか?あたしは、どっちにしても最悪な結果しかないじゃないか!
「ひひひ、ひひひひぅいー」
気色悪い顔で気色悪い声で笑う男は確実に射程圏内にまで近づいていた。
男がついた膝だか肘だかで、体重の重みでベッドがぐっと左へと傾く。
揺れる天井。揺れる視界の中で、あたしは決断した。
半開いた口をカチンと歯を鳴らして閉じる。両手をベッドについて、両膝を胸につけるように曲げて、首を曲げて「ふぉっ」と腹から気合を出しながら、あたしはぐるんと後ろに回転した。
ガッとカーテンを掴んで、勢いよくひらく。すぐに窓の鍵を開けて、窓枠に足をかけて登った。
選択は、二つだけじゃない。
あたしみたいに、弱くて、戦う事ができない者に許される選択。
逃げる!
『はぁ?お前バカか?』
謎の声が、多いに呆れていたような驚いていたような。
そして、あの変質者の男も、あたしの行動に呆気にとられていたように、目を丸くしていた。
足をずらして、手を窓枠にかけて、あたしはぶら下がるようにして、手をはなした。
下の階の窓枠に手をかけたけど、勢いでつかめず、指の皮をすりむいて、膝を何度か壁に擦り付けて、でもなんとか地面に落下。
「うがっ」
下が芝生だったのが幸いだ。落ちた衝撃はあったけど、擦り傷と尻を打撲ですんだ。
「う、いてて」
腰をさすっている場合じゃない。逃げなきゃ、あいつはまたくる!
芝生の上を走って、あたしは館に隣接している倉庫の影に身を潜ませた。
『おい、なんで戦わない?』
謎の声が、怒りを感じる声でそう言っているけど。
「なんで、戦わなきゃいけないのよ」
膝を抱え込んで、あたしは男が来ないだろうか常に警戒しながら、夜を過ごした。
幸いにも男は現れなかった。
だが恐怖は終わらなかった。
夏の休暇は日々心休まる時がなかった。
あの男はいつも現れるわけじゃなかったけど、何度もあの手紙は届いた。
しかも日に日にその内容がエスカレートしていく。
変態の妄想や思い込みが暴走したのをまんま文章にしたようなものだったり。
それはあたしの身に危険を及ぼすともとれる内容もあったり。
前の寮長が殺されて、新しく代わりの人が来たのはいいんだけど、その人があたしを常に監視している気がして心休まらない。
寮長が代わってから、あの変質者があたしの部屋に来る様なことはなくなったのはいいけど、今度は寮長がおかしい。
あの寮長も、あの男と同じような理解できない気味の悪い目をしている。
住民の安全が保障されているはずのAエリア、だと思っていた。
でも、そんなことなかった。あの件があって、あたしはすぐに学校に連絡した。でもまったくとりあってくれなかったのだ。このAエリアにそんな危険な人物はいない。毎日数十メートル圏内に武装した警備兵が見回りをしているし、全寮もセキュリティーは万全のはず。不審者の侵入などまずありえないという。
でも現実にあったのに、あたしは確実に体験したのに。
学校側は、あたしの思いこみだと言って、なにもしてくれなかった。
じゃあ、寮長殺したのはだれだと言うんだ?
とは思いつつ、そのことはあたしも強く言及できなかった。ヘタすりゃあたしが犯人だと思われてしまう。
休暇は長かった。日中もどこに行っても、誰かに強く監視されているようで、変な汗ばかりかいて、吐き気さえもよおすしまつ。
どこに行っても、誰にあっても、みんなあたしを敵意ある目で見ているような気がして、肌がブルブルなって思わず掻きむしった。
「リンネちゃん…リンネちゃん…」
!?
不気味な声が背後から聞こえた気がした。
バッと振り返ると、そこには複数の人が、不気味な目であたしを見ていた。
あの男じゃない、でも、同じみたいに不気味で計り知れなくて。
あたしはすぐにその視線から逃れるように逃げた。
夏の休暇が終わっても、恐怖は終わらなかった。
校内で、何度もあの男の存在を感じた。机の中に黒い毛が数十本入っていたり。ノートや教科書にはもはや文字の形を成さないペンの走り書きがあったり。
体操着やルームシューズには覚えのないシミがつけられていたり。
「ひぃぃっ」
その日は、リコーダーの中からムカデがワサワサと出てきた。
何度も口を洗ったけど、嘔吐は止まらない。
「ムリだよ、リンネちゃんに逃げる場所なんてどこにもないんだよ」
聞こえてくる不気味な声。男の姿は無いのに、すぐ側で聞こえるような錯覚。
男のせいで、周囲はますますあたしを冷たい目で見るようになった。
まるであたしがキチガイのように見えるんだろう。
あたしの恐怖は、周囲にとっては迷惑でしかない。
「ゴミだ、ゴミだ」
そんな声がいつも聞こえる。
嫌がらせをしているのは男だけじゃないことに気づいた。
もう、限界だ。
逃げればいい、なんて思ったけど、あたしが逃げられる場所なんて、どこにもないんじゃない。
どこにも、逃げ場所はない……
その時、あたしの脳裏に浮かんだのは、おばあちゃんだった。
「おばあちゃんのとこに行けば」
あたしは決意した。
Aエリアに絶望したあたしは、おばあちゃんという希望にすがろうとした。
未知の世界、恐ろしい街といわれるBエリアに行こう。
恐ろしいなんて、今のあたしの世界に比べたら、恐れるに足りない。
逃げる場所は、まだある。
今のあたしにとって、Bエリアは希望の地だった。
思いたって翌日、すぐにあたしは学校にBエリアに行く為の許可証の発行を頼んだ。
でも許可証の発行はいつになるかわからないという上、発行できないかもしれないという頼りない返答だった。
あたしは数秒でも待てる自信と余裕はなかった。焦るあたしとは対照的に、学校側は冷めた対応だった。
休み時間に退学願いを書いて、担任の机に置いて学校を出た。
寮に戻って、荷物を急いでまとめる。
必要最低限のものだけ選んで、あとは、使えそうなものを。
お金もあまりないし、売れそうなものも持っていけるだけ持って行こう。
おばあちゃんはきっと、あたしのこと見捨てたりしない。
なぜかそう強く信じて、あたしはこの絶望の街Aエリアを飛び出した。
Bエリアへと足を踏み入れることに成功したあたし。
だけど、Aエリアみたいにちゃんと街がしきられているわけじゃないこの街。
道もちゃんと舗装されてなくて、歩きにくい。
それに番地もどこがどこやらさっぱり。どこかに地図でもあればいいんだけど。
きょろきょろとBエリアの繁華街を歩いていたら、前方から猛スピードの自転車が走っていることに気づかず、あわやぶつかるところだった。
「うわっ」
ギャギャーーとタイヤが激しくこすれる音がして、蛇行して自転車は止まった。
び、びっくりした。と心臓バクバクのあたしに、自転車に乗っていた青年が、鬼の形相で自転車を蹴飛ばしてあたしへと近づいてきた。
「ボーっとしてんじゃねーぞ!このガキィ!」
「えっ」
男はポケットから十センチほどのギラリと光る刃物を取り出して、あたしへと向けた。
「殺すぞ!」
ブン!とナイフは空を裂く。
そして、ツカツカとあたしへと近づく。
ま、まじで?!
殺される!
あたしは慌てて背を向けて走って逃げた。
人並を縫うように走りながら。背中のリュックがこんな時邪魔だ。だけど捨てるわけにはいかないし。
「待ちやがれーー」
男が追いかけてくる。来ているような気がする!
「ハァハァハァハァ……」
どこをどう走ったのか、景色なんて覚えているはずない。ただとにかく必死に走って逃げて。
あの角を曲がろう、ガタガタの歩道を走りながら、あたしは進行先にある細い路地へと右折した。
「ひやぁっ!?」
曲がった直後、あたしはそこから飛び出してきたなにかにぶつかって、しりもちをついた。
あたしにぶつかったのは、たぶん女の子で、あたしに目もくれず、そのまま走り去ってしまった。
なによなによ、Bエリアの人って、思いやりの欠片とかほんとにないみたい。逆切れですぐ人を殺すような神経とか、もうやっぱり理解不能!
「おいおい、なに逃げられてんだよ」
まだしりもちをついたままのあたしの前に、さっきの女の子のあとを追いかけてきたような男が二人現れた。
「おっぱじめる前に逃がしてんじゃねーよ」
ガラ悪そう、Aエリアには絶対いない人種、係わり合いになりたくない。絶対目合わさないようにしよ。
「こんなことなら真っ先に、足やっとくんだったなー、おい」
え?
あたしの前で立ち止まったその一人の男が、あたしを見てにやりと笑う。
「この子でいいか」
え?なにが?なんのこと?
男の言うこの子ってのは明らかにあたしのことだ。
あたしでいいって、なにが?
すごく嫌な予感がする。逃げなきゃって第六感が叫んでいる気がする。
「だな。手ぶらで戻ってもマズイしな。あいつらも納まらないだろうしな」
しりもちから立ち上がっていない状態のあたしの両腋を、二人の男が掴んで上げる。
「ちょっ、あの、なんですか?!」
にやにやと不気味な笑みを浮かべて、あたしの腋を掴んで連れて行くこの男達。なんとなくわかる、正常じゃないって。目からしてヤバイって、まともな人種ではないって。
少し地面から浮いたあたしの体は、何度か上下して、靴底が地面をこすった。そのたび反射的にあたしは足を上げる。
連れて行かれた先は、ダストボックスが散乱する袋小路。両脇に古びた建物の屋根が上に覆いかぶさるようにあって、昼間でも薄暗いその場所で、待ち構えるようにしていたのは三人の男たち。
見たところ、こいつらの仲間のような。たぶんそう。
あたしを連行した男たちが、「わりぃ待たせた」と片手を挙げながら待ち受ける連中に声かける。
「おいぃっ!別人になってるじゃねーか」
「すり替えか?手品か?ヒャハッ」
男の一人が指差しながら、そう言って下品に笑う。びひゃっと音たてて異常なほど唾液が飛び散ったのが見えた。うへー。ちらりと見えた舌はなんか、変形していたような。
そいつだけじゃない。他の男も、服装からしてちょっと異常というか、Aエリアの常識では考えられないようなファッションセンス。ジャケットの下は素肌だし、見たくもないのに見える乳首にはキラキラ光るものがあったり。
いやファッション以前に、目が、目が怖い。もう異常者そのものという目をしている。
まるで獣のようにギラついた目。
「これじゃだめー?」
あたしを抱える一人が、あたしを指差してまるで物みたいに言う。
「いいから連れて来いよ、早くな」
向こう側の男が急かすように言う。
「ちょっ、なん」
肩をぐいっと揺らして、抵抗を示したけど、気づかれないほどのあたしの行動は無視されて、あたしを指差した男にまた物みたいに抱きかかえられてあたしは連中の側へと連れて行かれていく。
あたしを連れて行く男の足がふと止まった。そして、理解不能なことを話し出す。
「なぁなぁ、その前に歯折っとくか?邪魔だと思うんだけど」
は?なんのことですか?
すると向こう側にいた男の一人が
「顔面ボコるのは止めてくれや。ブサイクだと萎えちまうからな」
「おれは歯抜けのほうがいいんだよなぁ〜」
「歯が……当たるのが……EEv」
「ヒャハッ、早くキメろヨ」
なに?一体なにをもめてるんだ。まさか、あたしの歯?
やめてください、歯は再生不可なんですよ!
うだうだともめること数分…。
「多数決で、歯ありに決定ー。異議なーし?」
なんか決まったらしい、あたしのことらしきことをあたしを無視して。
事態が飲み込めないままのあたしの体は突如宙に浮き、その体はケツから地についた。背負っていたリュックははがされ、道の脇へとほうられた。
人形のように腋から抱えられて、薄汚れたダストボックスの上に乗せられた。
その衝撃でぶわっと埃が舞う。黒い空気の中咽るあたしを不気味な男達がぐるりと囲む。
あたしを抱えた男は背後から羽交い絞めにするようにして、あたしの上半身を押さえつける。
それは乱暴な掴み方で、皮がひっぱられたりねじれたりしてあたしは思わず悲鳴を上げた。
でもそれを聞いても掴みを緩めたりせず、痛がるあたしを見て愉快そうに笑っている連中。
「なにするんですか?!あなたたち、な、なんなんですか?!」
黒いものが張り付く唇で、涙目のあたしは口の中に入る塵に耐えながら問いかけた。
必死のあたしを小物みたいな目で見るそいつらは、人を馬鹿にしている様な声で笑いながらあたしの上に影を作るように囲む。
その状況はただただ不気味すぎて、異常すぎて、あたしの体は本能的に凍りついた。
あいつと同じ、あの変質者と同じ目をしている。別の人間なのに、同じ生き物に見える。
「すげー震えちゃってるよ、この子お前の大好物の処女じゃね?」
後ろの男の声、あたしを羽交い絞めにしているその手が、あたしのシャツをぐるりと捲り上げる。
「ひっ」
「ヒャハッ!おれが一番目いっちゃうヨォ〜v」
むき出しになった腹部に生ぬるい風が下のほうから流れてきた。
あたしの正面からあたしに覆いかぶさるようにして立つのは、奇妙な笑い方の蛇みたいな顔した男。
あたしはそいつと目が合う。こっちは見たくなんてないのに、なんでか目が逸らせないし。
こいつが蛇ならあたしはきっと蛙。脅えるだけで、ただ食われるしかない弱い蛙。
あたしの目を見ながら、トカゲのようにはいながら、あたしの腹をヘソから上部へと舌をはわせている。
それは上下左右と気持ち悪いほど動きながら、あたしの肌を刺激している。
やすりみたいにザラっ気のある舌が余計に刺激をくれる。それがはった後にはぬめぬめとした汚い道ができて、その気持ち悪いのがだんだんあたしの顔のほうへと近づいてくる。
怖くて気持ち悪くて、無意識にカチカチなってしまう口からは唾液が流れ出した、でもわかっているのにあたしは自分の意思でそれを止められない。
あたしのシャツを捲り上げた男の逆の手が、今度はその下のブラジャーに手をかけて、勢いよく上にずらす。
乱暴にされたそれにあたしの肌に赤い模様が浮かぶ。あたしの顔が苦痛に歪もうが、こいつらに罪の意識など皆無で逆に行為はエスカレートしていく。
「乳首さんいらっしゃ〜い♪ギャハハハハハ」
「ピンクピンク、ピンク色〜♪ヒャハハッ」
メロディつけてこいつらはさらにふざける。
味わったことのない屈辱にあたしの体は無意識の反応をしてしまう。顎が破壊されそうなほど口元に力が入って、ギチギチと怖いほど音を立てる歯。何度か脳内で歯が飴細工のように砕けていく幻想を見た。
相変わらず唾液は垂れて首筋に伝っていくし、鼻水も垂れて、目は乾いている感覚なのに涙がじるじると鼻水と合流していた。
こんな醜態をさらして、乙女として見られたくない恥ずかしい場所を晒されて、こんな屈辱ってない。
もうムリ、限界、逃げたい、逃げなきゃ、だけど体があたしの思うように動いてくれない。
押さえつけられて、そして恐怖で、どうにもならない。
あの恐怖から逃げたくてあたしはBエリアに来たのに。結局運命って変えられないのかもしれない。
味方なんて最初からどこにもいなくて、そうこれがあたしの運命なんだ。
逃げたいこんな現実から。
意識が遠くなりかける。今見えている世界が消えそうなほど。あたしの上で動く物体もただの影みたいに思えてきた。
あ、これでやっと楽になれそう。そう思った瞬間、とんでもない刺激があたしを現実に引き戻す。
「っひぅっっ!」
反射的に体が跳ね上がった。顔を上げると気持ち悪い顔が舌なめずりしていた。
あたしを現実に引き戻した痛みは、剥き出し状態の胸を駆け下りていく赤い液体が流れている元から。
信じられない顔をしているあたしを見て、奴は気持ち悪いほど嬉しそうに笑う。
「次はこっちの味見にいこっか〜?ヒャハッ」
あたしの血液をつけたそいつの指が、ベタベタと変な生物みたいに動きながら向かうのはへその下……下腹部、その先の……?!
「ひっ、やっ」
訴えにもならない悲鳴。口が上手く動いてくれないし。
後ろからあたしを押さえつけている男は、胸であたしの頭を起こすようにしてわざとあたしの目にあたしがされていることを見せるようにしている。
視線の先で動く指を見せられながらあたしは思い知らされた、ああ所詮あたしってゴミなんだーって。
親と別れを決めた日に言われたことも思い出した。そう言われたんだあたしは。
どんどん思い出される、親だけじゃないよ、もっと他にも言われたんだっけ。
ゴミならゴミらしく果てるべき?逃げる選択もないなら?
どうしたら死ねるんだっけ?舌を噛み切るんだっけ?できる?できるかな?
ガチガチに噛み締められたその歯をぐぐっと少しだけ開けてみる。
『おい、なに考えてんだ?てめぇはよ、どこまで……』
ああまた聞こえる。限界超えたゆえの幻聴かも。だってほら、今あたしの目に映るのは見たこともないおぞましい身確認生物があたしのあそこに迫っているように見えるもの。
『ちぃぃっ!この糞馬鹿女がっっ』
幻聴がして、キーンってすごい耳鳴りがして、視界が真っ白になった。
意識が遠くなった、それが死後の世界なのかあたしは知らない。
「うっっ、いぅっっっ!!」
次の瞬間痛みで気がついた。
視界が真っ白になって、あたしは死んだのかなって思ったけど、どうやらそうじゃないみたい。
そこは死後の世界でなくBエリアの、あたしがいた場所。あたしが押さえつけられていたダストボックスは何者かに破壊されていて、ゴミが周囲に散乱していた。さらに驚いたのは、あたしを襲ったあの男達五人が、みんな傷だらけになって倒れていたこと。
「一体なにが、どうなって……」
ざぁっ……とノイズみたいな音が耳の奥で流れて、気持ち悪くてあたしは首を振った。
考えないほうがいいかも。
乱れた着衣を直して、あたしは立ち上がった。体中をいろんな痛みが襲ったけど、動けないほどじゃないし、とにかくここから離れなくちゃヤバイってことはわかるから。
「ぅおぃ……ま、てよ」
呻きに近い男の声が背後からして、反射的に振り向いてしまったあたしへと倒れていた男の一人が立ち上がって近づいてきた。
「ふざけ、やがって」
ブンと重い空気が切られる音がして、それはあたしの体をくの字に曲げさせた。
「ぐぅあぅっっ」
腹部に激しい衝撃を受けて、あたしは塵だらけの地面に頬を擦り付けていた。
「調子、乗るなよ?このゴミクズがよ?」
その口調はさっきまでのあたしをからかっていたようなものとは違って、余裕がないように思えた。
つまり本気で、怒っている。
「はがっっ!ふぐぅっっ」
ドスッドスッ!容赦なくあたしの腹部を男は蹴り付ける。
「がはっっ、えぅっっ」
喉の奥から生暖かいものをあたしは地面に吐いた。その液体が宙を舞う。暴行はなおも続いた。
あたしの体はまるでドラム缶みたいに蹴りころがされて、そいつもあたしのことを蹴ることにためらいのないものみたいに思っている。
ぼこぼこの道を転がされたり、飛ばされたりしながらやがて路地をぬける。
眩しい光を感じた。暗がりにいたあたしの目がまだそれに追いつかないけど、だけど見えた。
うずくまったあたしに飛び込んでくる鉄の塊。
死への扉が今完全に開いた音がした。動けないあたしは、もう諦めモードで。
諦め……てるくせに、助けてってあの人のことを思い出して心の中で叫んでいたんだ。
おばあちゃん助けて!
死の直前、人は幻覚を見るんだろうか。
あたしは温かい腕の中に抱きしめられていた。
あたしの顔にかかりそうなふわりと流れる黄色がかった柔らかい髪。薄紫色の柔らかい衣服に優しい香り。
ほんとに、おばあちゃんがあたしを助けてくれた?
見上げたあたしの顔を覗きこんだのは、それはおばあちゃんじゃなくて……。
背後には炎上する車。あたしは轢き殺されてはいなかった。
この人が助けてくれた……。
長い睫の下の赤茶色の瞳に映ったあたしは、まばたきもしないでその瞳を見ていた。
こんなことってあるんだ。
あたしの体が音を上げて反応する。今激しく生きをする。
あたしは王子様に出会った。
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