大海原を悠々と行く一隻の大きな船があった。
その船の上から、海を見渡す青年が一人。
百八十と八センチの長身の身よりも目を引くのは、潮風になびく紅色の長い髪。
紫に近い紺色の丈の長い衣を纏っている、それには金色の刺繍が施され、高貴な身分の者であると見える。
「温羅様。こちらでしたか」
その声に、青年は振り返る。振り返った青年の瞳の色は髪の色と同じ、印象的な赤い色だ。
自分に声をかけた存在に、フッと嬉しそうな笑みで答えかけた。
「ああキト。潮風が心地よくてね」
赤い髪のこの青年の名は温羅(うら)。
大陸の端に位置する半島にある国の、第二王子。
幼き頃から、武術と学術に秀で、父である王から期待されてきた温羅。
その王が、最近床に伏せるようになり、父に代わって政務を手伝うことになったのは先日のこと。
その帰りの船路だ。
温羅に付き従う青年の名はキト。
幼き時から温羅の元についている近衛兵であった。
ただ、温羅にとってはそれだけの存在ではなかった。
彼の前では子供のように無邪気な笑顔を見せる、彼は特別な存在だった。
温羅にとって、キトは真友(とも)と呼べる特別な存在・・・。
「御勤め、ご立派でした」
キトの言葉に、はにかみながら温羅は答える。
「私など、まだまだ父上の足元にも及ばない」
「ご謙遜を。・・・あなたは、立派な王になりますよ」
「そうだな、そうなりたいものだ・・・だが、父上の跡を継ぐのは兄上だからな」
王が倒れてから、周囲では王位継承問題が騒がれていた。
次期王となるのは、第一王子である温羅の兄、加羅であるか、それとも第二王子の温羅であるかと。
温羅と加羅は腹違いの兄弟だった。温羅は正室の子であるが、加羅は側室の子であった。
さらに温羅のほうが、武術も学術も優秀で、容姿も美しかった。長身と赤い髪がそれをさらに引き立てていた。
人目を引く強い存在感に、正室の子。さらに王である父からも強く信頼されていた温羅。
宮廷内では、跡継ぎは温羅で間違いないと囁かれていた。
だが、温羅は王位を継ぐ気持ちはほとんどなかった。
彼は兄である加羅が継ぐべきだと思っており、自分はその手伝いをしようと思っていた。
加羅とは、兄弟でありながら、あまり交流がなかった。
加羅が自分を快く思っていないことは、薄々感じてはいた、そんな噂もよく耳にした。
でも、いつかは兄上とも分かち合いたい。
そう強く思うようになったのも、王子として立派になってみせようと、思えるようになったのは
彼・・・キトの存在があったから。
いつも側にいて、支えてくれた。
王子である自分に、友として接してくれた、温羅にとってキトは、身分を越えた大切な友という存在なのだ。
くじけそうな時、側にいて支えてくれた、勇気づけてくれた。
キトは大きな存在だ。温羅にとって、彼の人生の歴史といってもいいほど、大きな存在だった。
「感謝している、キト」
「どうしたのですか、急に改まって」
「私はお前に力をもらったんだ、幼き時からずっと、側で支えてくれたお前の力あって、今の私がいる。
そして、これからも、力になって欲しい」
温羅のその言葉に、キトはにこりと微笑んだ。
ふっ。と温羅も目を細めて、感情を見せた時だった。
温羅たちの乗る船に近づく不審な中型船があった。
なんの旗も掲げていない、不気味な船に、温羅も気がついた。
「なんだ?あの船は。どこの国だ」
大陸では、海上ではその船が所属する国や組織を現す旗を、目立つ場所に掲げなければならない決まりになっている。それを守っていない船ということは・・・
「海賊!?」
キトの言葉に、温羅の表情も険しさを帯びる。
不審な船は温羅たちの船に近づき、はしごをかけ、不審な連中が船内に乗り込んできた。
全員黒ずくめの不審な連中は、見た目にもどこの所属のものかわからなかった。
(やはり、キトの言うように海賊なのか?)
賊なら船の積荷が目的か?
しかし、連中は積荷には目もくれず、向かう場所が最初からわかっていたように、迷わずこちらへと向かってきた。手には武器を構えて、黒ずくめの連中は温羅たちの前にやってきた。
(私の命が狙いなのか?!しかしなぜ、賊が私を狙う?)
自分の命を狙う者、・・・かなしいことに温羅はその人物に心当たりがあった。だが、良心が最後までそれを否定したがっていた。
「温羅殿、ここで死んでもらおう」
賊の一人が武器を手に、近づいてきた。
(私を知っているということは・・・やはり、ただの賊ではない)
黙って殺されてやるわけにはいかない、温羅は腰に携えていた剣を抜き取り、構えた。
それを遮るように彼の前に立ったのは、同じく剣を抜き取り構えたキトだった。
「キト!」
「この者たちは温羅様の命を狙っています。ここは私に任せて船内にお逃げください」
「キト、私はこんな連中に負けはしない」
「わかっております、それでも万が一は許されません。
それに、さきほどの言葉、今こそ実践させてください。
私を信じてください!」
温羅は背を向けたままの友に、強く頷いた。心熱くなる友の想いを強く感じた。
温羅はキトの実力はよく知っていた。王家直属の兵である、自分とも互角にやりあえるほどの腕前だ。
温羅は走って船内にと下りていった。
いくら腕に覚えのあるキトであれあの数を相手にするのは不利であろう。見たところ二十人はいたはずだ。
早く助けを呼ばねば。
船内に走って、温羅はハッとした。
賊はやけにスムーズに船内に侵入してきた。なぜだ?自分とキト以外に賊に気づいた者が誰一人いなかったなど、それこそおかしい。
「まさか、最初から」
もしそうなら、キトの身が危うい。自分と同行していた兵はみんな敵になる。最初から仕組まれていたに違いない。国内での暗殺が難しいと考えたのなら、国を離れた今こそ絶好の機会と考えるだろう。
「キト!みんな敵だ!みんな、兄上の手の者だ、最初から私を殺すつもりで、この船に乗せたんだ」
温羅が戻ってくると、黒ずくめの連中に囲まれたキトがいた。まだ無傷のようである。
「そうですか、やはり、気づかれたのですね」
にこりと微笑み、自分の方へと向きかえるキト。
「敵に背を向けるなキト!」
「え?」
不思議そうな顔を浮かべるキトに、黒ずくめの男達は背後から斬りかかったりはしなかった。
「そうですよ、皆加羅様の命でここにいるのです。温羅様、あなたの命を奪う命を受けて、ね」
「キト?どういうことだ。まさか、お前兄上にそそのかされたのか?」
嫌な汗が身体を伝う。心臓音が高鳴る。友の信じられない言葉から想像できることを温羅は口にした。
「あなたは本当に、哀れなお方だ。そそのかされた?なにをおっしゃる。
私は最初から加羅様側なんですよ。幼き時から、あの方に仕え、あの方の命で、温羅様あなたを監視してきた」
なに・・・なにを言っているんだ?キトは・・・
ぐるぐると回る思考、さらに高鳴る鼓動。
体が精神の異常を伝える。
「長年、あなたの側で仕え、そしてあなたは友として私に心を許すまでになった。
私は嬉しかった。私自信があなたの弱みとなるのだから」
キト、どうして・・・
「機会はやってきた。あなたは海賊に襲われ、不幸にもここで命を落とすことになる」
ぐるぐるめまいを感じる頭を押さえながら、温羅は口を開いた。
「もし、私がここで死んだとして・・・。その場合お前はどうなる?私を死なせたとして只ではすまされないぞ」
キトはフッと笑みを浮かべて
「その覚悟ならとうにできてますよ。すべてはあの方のために。私の命など惜しくはない」
温羅の中で、なにかが割れるような音がした。ふらつく足でゆっくりと後ずさる。
「あなたにわかりますまい、あの方の悲しみが、嘆きが。
あなたの存在そのものが、あの方を不幸にする。あの方が欲したもの、あの方が持たぬものをあなたは持ちすぎている。
だからこそ、消えていただきたい」
温羅はひたすら首を横に振った。
「違う、持っているのは兄上のほうだ」
小さくつぶやく声で。
温羅がなによりも大切だと思っていたもの、それを加羅は持っている。
その感情を、悲しみで表現するのは、きっと足りなさ過ぎる。
「さあ、覚悟を決めてください」
キトを筆頭に、黒ずくめの暗殺者たちが温羅へと刃を向ける。
一瞬目を伏せた温羅は、キッとキトを見て口を開く。
「キト、最後に聞かせてくれ。今まで私に言ってくれた言葉も、優しさも、すべて偽りだったのか?」
揺れる赤い瞳をキトは視線を逸らさぬまま答える。
「あなたは立派な王になる、そういったのは本当ですよ。だからこそ、あなたには消えてもらわねばと思いました」
「キト・・・ならば、消えてみせよう」
温羅は船のヘリに立ち、背中より海へと飛び込んだ。
「自分から消えてくれたか。念のため、撃っておけ」
キトは海へと沈みゆく温羅を冷たい目で見下ろしながら、黒ずくめの連中に合図を送る。
海の中でぼやけるキトを見ながら、温羅は最後の希望を打ち砕かれた。
水の中降り注ぐ矢の中、意識は深く深く沈んでいった。
父の期待に応えたい。
王子として立派に・・・
そんな想いはもう薄れていった。
彼にとってのすべての支えであったそれを失ったから。
もう死んでもいい、なにも未練などない。
私は、命よりも大事なものを失ったのだから・・・
温羅の胸を押しつぶすのは、水圧だけじゃなく、それよりも重く重くのしかかってくるものだった。
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