「その…手を、はな…せよっっ!」

途切れ途切れの呼吸で、それでも力を込めながら、アオは目の前の外道に叫んだ。
すでに生気を失ったアイの顔は、どんどんと死人のそれに変わっていく。
黒衣のマントの男は、アオを見た。息もきらさず、疲労の欠片すらない余裕の表情で、血だらけの花嫁を放り投げた。落下したアイの体は不自然な体勢でどしゃりと床に落ちた。うめき声すらあげなかった、もう完全に息絶えてしまっていたからだ。男には感情などないのだろうか。まだ幼さの残る少女すら非道に手をかけ、物のようにその体を放り投げた。

「アイ!」

動揺しながらも、アオはアイへと駆け寄る。抱きかかえたところでずしりとした重みがあり、体が壊れていくような気味の悪い音を両腕に感じた。それにびくりとする瞬間、目の前に鋭い殺意があった。ひやりと首筋に冷たい感触と、むわりと漂う血をはじめとする体液の臭い。
男の鎌の刃が、今まさにアオの首を刈ろうとかけられていた。

「よくも、アイを」

ひざは震えながらも、アオは怒りの形相で男を睨みつける。腕の中の妹はギシギシと気味の悪い音を立て続ける。その現実に恐怖しながらも、アオは目の前の男…ボヒルドゥルを力強く睨み続けた。「ヴゥ…」と傍らの銀毛の狼がうなるが、ボヒルドゥルの指示がない限り勝手に攻めてはこない。

「君のような強気な者は嫌いではない。いたぶりがいがある」

くにゃりと赤い三日月が不気味にゆれる。ボヒルドゥルのアオへの評価は悪いものではない、が気色の悪いものだった。圧倒的な力量差は、刃を交えなくともアオですら感じた。とても勝てる相手ではないと。一族の男たちの誰一人歯が立たず沈んでいった。ドゥルブの男たちの中でも最弱のアオが、勝てるはずがない。現に今、鋭い鎌の刃を突きつけられている状態だ。ボヒルドゥルが軽く手を引くだけで、アオの首はかき切られるだろう。頚動脈を切られれば、出血多量で死は免れない。いくら強気でも、絶望的な状況から脱せられない。ただ幸いにもボヒルドゥルはすぐにアオを殺そうとしなかった。絶望するアオの様子を悦びのまなざしで眺めていた。わずかに数分だが、恐ろしいまでに長い時間に感じられた。汗があふれ、己の呼吸と血が巡る音がうるさいほど聞こえてくる。音がどこか遠いところでしているような感覚で、視界がグラグラと揺れ始める。地震ではない、アオが意識を失っただけだった。
ボヒルドゥルはアオに止めを刺す様子はなく、なにかに意識を集中させた。一緒にいる狼もだ。ピクリと狼の耳が立つ。狼に続いて、ボヒルドゥルも音に気づく。

「長! こっちです!」

男の声だ。ボヒルドゥルたちのいるゲルのほうへと向かってくる複数の存在があった。ドゥルブの民は絶滅している。となると、ナイムの者たちだろう。

「ハムタ、退くぞ。目的は果たした。早くアグォーエルのもとに金剛石を届けねば」

相棒の狼を呼び、ボヒルドゥルはゲルを出る。出たところで、ナイムの者たちと思われる数人の男に遭遇した。彼らは武器を構え、ボヒルドゥルを敵だと認識した。
当初の命令どおり、部隊のほかの者たちは撤退済だ。ここにはすでに物言わぬ存在に成り果てたドゥルブの者しかいない。ボヒルドゥルたちは突風のごとく、わずかな短時間の内にドゥルブの民を全滅していった。

「止まれ!」

ボヒルドゥルに矢を向けながら声を発したのはナイムの者と思われる一人の男だ。矢はぶれることなくしっかりと、ボヒルドゥルの急所に狙いを定めている。貫くようにも感じる眼差しは、集中力の高さからきているようだ。
が、ボヒルドゥルは大人しく止まりはしない、そのまま背を向けてこちらへと向かってくる馬へと駆け上がる。
ひゅっと風切る音をさせながら、男の手から放たれた矢はまっすぐボヒルドゥルへと向かう。キィンと金属をはじく音がして矢はボヒルドゥルに当たることなく別の方角へと飛んでいった。ボヒルドゥルは己の武器で難なく攻撃を防いだ。涼しげな顔のまま、相棒の狼とともにこの場を去っていった。

「牙主ボヒルドゥルか…。ソウ、勇敢なのは結構だが無茶をするな。あの男はお前一人でどうにかできる相手ではないぞ」

黒いひげを蓄えた黒髪の壮年の男が弓を放った男にそう注意した。構えていた弓を下ろすと、男の鋭かった目元は緩み、まだ若いことが伺える。

「はい父上! …しかし、酷いありさまですね…。ここまでするなんて、黒痣の奴ら」

ソウと呼ばれた少年は父とともに周囲を確認するが、みな絶命しており、体が離れ血の海の中に肉の欠片や内臓が浮かんでいた。
ともにいた他の仲間の下にソウたちも向かう。特に血のにおいの立ち込めるゲルの中、仲間の一人の青年は悔しそうに顔を歪ませて首を振った。

「花嫁にまで、こんな酷いことを…」
「なんてやつらだ…」

ゲルの中に足を踏み入れるソウに、中にいた青年がストップをかける。
「ソウ坊ちゃまは見ないほうがいい」
自分の花嫁となるはずだった相手が酷い姿で横たわっている。ソウにとっては残酷すぎる光景だろう。

「誰も…生存者がいないのか…?」

悲しく視線を落とすソウが、あることに気づき目を見開く。ゲルの隅に倒れていた少年の鼓動の音。草原の民の中でも特にソウは感覚が優れている。

「生きてる者がいる!」

ソウの父である長と、アイを確認していた青年もすぐにソウの元に駆け寄る。血に濡れていたがその血は倒れていたアオ本人のものではなかった。アオは意識を失ったまま、そこに倒れていた。ソウたちが呼びかけても意識はまだ戻りはしなかった。



幸せそうに微笑みかける花嫁姿のアイは、突然アオの目の前から消えた。暗闇の中で、アオは懸命にアイの名を呼び探した。

「逃げろアオ! アイと金剛石を守ってくれ!」

それは父の声で悲痛なその声とともに血だらけで崩れ落ちていく父の背中が見えた。そして場面は切り替わり、ゆらゆらと力なく空中で揺れているアイが見えた。アイが空を飛んでいるわけではない。アイのすぐ横に見知らぬ男が立っていた。漆黒のマントを羽織った端正な顔立ちの青年だ。だが気味の悪い笑みを浮かべ、その手には赤黒く染まった刃の大鎌があった。

「(アイ?)」

ぐるりとありえない方向にアイの首は回り、白目を剥き、赤い液体が噴出すように、アイの体を赤く染めていく。

「(うそだ、うそだうそだ…)」

見たくない光景なのに、目をそらせない。そしてあの気味の悪い男はアオへと近づいてくる。気がおかしくなりそうな、恐怖と絶望。


「うわぁっ」

悲鳴とともにアオは飛び起きた。

「お、起きたか! 具合は悪くないか?」

「!? な、お前は」

反射的に距離をとり、アオは目の前の見知らぬ男を警戒する。初めて見る顔だ。そしてここはどこかのゲルの中。アオのいた場所ではない。一瞬混乱に陥る。先ほどの夢が夢であるのなら?
…いや、夢ではない。体の感覚が嫌でも思い起こさせる。この目はしっかりと父やアイたちの最期を焼き付けていた。目の奥が焼け焦げるような熱く強い痛み。簡単に冷やすことなどできない。憎悪がアオの体を震わせる。

「よくもアイを…オレの家族をッッ」

カアッと血走った目で、アオは目の前の男に飛び掛った。「おい、まて俺は敵じゃない、落ち着けって」と言いながら男は、言っても聞かずに殴りかかってくるアオを力ずくで押さえつけ、動きを封じた。素早いわりにあっさりと捕らえられ、体の軽いアオは男に完全に押さえ込まれてしまった。アオの予想外の弱さに男は拍子抜けしたが、ほっとした。

「あっ、気がついたんだ!」

押さえつけられて姿は確認できないが、別の男の声をアオは確認した。

「やぁソウ坊ちゃま。起きたのはいいんですけど、まずは状況説明からしてやんないと」
アオを押さえたまま振り向きながら男はゲルを訪ねてきたソウに答えた。

「ソウ?」
アオはその名前に聞き覚えがあった。ソウ…ナイムの長の息子だ。アイの婿になるはずだった相手だ。と、いうことは…

「ここはナイムの?」
訊ねるアオに「ああどうやら事情飲み込めたようだ」と男が頷く。

「ソウ坊ちゃま、とりあえず彼を長のところへ」
男から解放され、アオは男の言葉を聞かずに駆け出した。「あっちょっと」呼び止める声にも止まりもせずに、アオはゲルを飛び出し、あるところへ走る。

「あれ、アンタは」
すれ違うときに何人かのナイムの男たちが、アオに気づいたらしく声をかけたがアオは無視して走る。
向かった先は…、ナイムの長のゲルだった。

「アンタが、ナイムの長か」
長のゲルに勝手に入ってくるなり、アオは正面に座する男にそう訊ねる。ナイムの長【ダヴァフ】は顔色を変えることなく正面に立つアオを見据える。アオの顔は赤く、目は血走り、憤怒の感情に溢れていた。


戻る  目次  次へ   2012/08/26