「ぐわぁっ」
木のムチが空を切る音、それが聞こえる瞬間、体は勝手に硬直した。
何度も何度もそれが自分の体を打ちつける。
体の傷が癒えぬうちに、何度も何度も、それは襲ってきた。
幼い少年はそのたびに強い目でその自らを傷つける相手を睨んだ。
その相手は、しわだらけの顔に手、振り乱した白く広がる髪はかなりの高齢者だと思わせる。
少年を見下ろすその白い髪の老女は、不気味にぎらつく白い目をカッと見開きながら
いくつか抜け落ちた隙間だらけの歯を見せながら、不気味に笑っていた。
そして、膝をついたままの少年の背中にまた容赦なくムチを振り下ろした。
人気のない、山奥の草木多い茂るその小さな小屋で、その光景は毎日繰り広げられた。
小屋は老女の住処であり、老女はずっと昔からこの山奥で生きてきたという。
老女は下に住む、島の他の住民とは一切関わることなく、百に近い歳をむかえた今でもなお、たった一人でこの山で、果実を食らったり、山に生きる獣を喰らったり、なにかに頼ることなく生きてきた。
その強い生命力がどこから来ているのか、それはだれにもわからなかった。
老女が何者なのか、生い立ちからその本当の名前まで、知る者はだれもいなかった。
ただその存在はかすかに知られており、山に住む恐ろしい山姥だと噂され、住民は恐れていた。
ゆえに、山姥の住むその山には誰も近づこうとはしなかった。
他に山に近づかない理由として、山の主として恐れられていた巨大猪の存在もあったのだが。

その老女と寝食を共にするこの少年は
老女が山で拾ったという赤子だった。
恐ろしい老女がなぜ赤子を拾い育てたのか、その心情はやはりだれにもわからないものであり
老女亡き今は、だれ一人としてその心情を知る者はいはしない。
老女に育てられたその少年にさえ、永遠に知ることはないであろう。


猪を仕留めた少年は、月明かりに照らされた獣のような瞳をその老女へと向けていた。
今はもう目に映らない、土へと還ったその忌まわしき存在に。

少年の名は桃太郎。
そう名づけたのは山姥である老女だ。
老女は少年をこの山の桃の木の下で拾ったと言っていた。
それだけだ。
少年は己のことをそれだけしか知らない。
自分の本当の親のことも、なぜ桃の木の下に捨てられていたのかも。
なにも知らなかった。
だが、少年は自分の両親のことを知りたいと思わなかった。
少年の日々は、ただこの恐ろしい老女をどうやって越えるか、そのことばかりだった。
老女は少年を赤子の時に拾い、我が家である山小屋へと連れ帰って育てた。
育てたといっても、他の親が子を育てるのとは違っていた。
山で捕ってきた獣の血や肉を、乱暴に赤子の前に投げ捨てて
それをそのまま食わせていた。
赤子はそれにむしゃぶりついた。
本来なら母の乳を欲するその体であろうに、どんなに望んでもそれは手に入らない。
本能が知っている。生きるため、生き残る為の性。
そのままに、赤子は老女の捕ってきた獣肉をむさぼった。
子は親を見て育つ・・・
赤子は老女のようにギラついた目の、他の人とは一線を越えたような、感覚を身につけた子へと成長した。
自分の足で立てるようになった頃、老女は少年を狩りへと向かわせた。
狩りに失敗すると、老女に殴られた。
狩りに成功しても、それを老女にすべて盗られ、自分の食い分は残らなかった。
自分も食べるにはより大きな獲物を捕らえるか、もしくは
老女を倒せるくらい、自らを強くすることだった。

少年は何度も老女に挑んだ。
子供とはいえ、山で育ち、鍛えられたその体は他の子供より圧倒的に引き締まった筋肉を身につけていた。
まだ子供ではあっても、獣のように俊敏になったその肉体は、大の大人相手でさえ負けそうには見えなかった。
ましてや相手が百歳近い、しわだらけの体に、腰も曲がった老人ならば、楽に勝てるだろう。
だが勝てなかった。
老女はただの老人ではなかったからだ。
少年は何度も挑んだ、何度も本気で、何度も殺す気で・・・
それでも勝てなかった。

もし、この世に鬼が存在するのならば、それは間違いなくこの老女であろう。

少年は
桃太郎はそう思っていた。

「つっ」
老女にやられた古傷が、老女のことを思い出すと痛み出す。
すでに完治しているその傷なのだが、精神的に感じてしまうのだろうか。

「あー、くそっ、ババァのことなんて思い出したら吐き気がするぜ。
たく、んなことよりメシだメシィ!こいつぜーんぶ俺様の胃袋にぶち込んでやるぜ!」
横たわる巨大猪の肉を、桃太郎は乱暴に斬りおとした。



そして何度か太陽と月が入れ替わり、ゆったりと時が流れるこの島にも、大きく動く時が迫りつつあった。
ビキの家とひとつ田を挟んだ先に、サカミマの家があった。
サカミマの家はこの島で数少ない診療所の役割を持った家であった。
人口の少ないこの島はここがそうそう忙しいことにはならないのだが
最近はそうでもなかった。
今日もまた、傷を負った男がここに来ていた。
その男はこの島の者ではなく、海よりやってきた。
この島を離れ、海を越えたその先にある大きな島。
そこでは大きな四つの国と、それ以外にもたくさんの勢力が争い合い、傷つく者の耐えない混沌とした世界が繰り広げられていた。
男はその争いで傷つき、逃れてきた者。
そういった者は、この男だけでなかった。ここ最近は毎日のように船に乗ってこの辺境の島へと逃れてきていたその地の人々。
難民である。

争いのことなど、遠い地での出来事だとこの島の者は思っていた。
こうして戦地より逃れてくる人々を抵抗なく受け入れ、こうした場所にてそういった人々の面倒を見たりしながら。変わらない穏やかな島での時間。

ビキの姿はサカミマの家の中にあった。
こうして時々ビキは、いつも世話になっているサカミマの手伝いに来るのだった。
一室にて、怪我人の包帯を変え終えたビキに、サカミマが声をかける。
「ビキ、今日はもういいですよ。お父さんのことも心配でしょう?」
「父ならもうだいぶよくなって、まだ仕事には戻れないけど、今は起き上がって周囲のことはできるくらいに回復したので、大丈夫です」
少し前に倒れて床に伏していたビキの父。ビキにとってはただ一人の家族である彼の安泰はサカミマも気にかけていたことだった。
笑顔でそう答えるビキの様子にサカミマも安心する。
「それならよかった。ビキも安心したでしょう」
「はい、早く働きたいみたいなんだけど、もう少し休んでもらいたくて、ムリしないように言ってます。
サカミマさんにも心配かけたみたいで」
「いえ、回復したのであれば、本当によかった。
でも今日はもう休みなさい。今度はビキが倒れたら困りますからね」
「え、そんな、私まだまだ元気です!」
「自分で元気だという者ほど、ムリをしがちなんですよ。あとは私と父の仕事なんで、あなたは今日はもう戻りなさい」
「・・・はい、それじゃあ、また明日」
「ええまた明日」
ビキは辞儀をしてサカミマ宅を後にした。
今日、島に逃れてきた者も、痛々しい傷を負い、見ているだけで痛かった。
海を越えた先の陸地では、ビキには想像もつかない、激しい世界があるのだろう。

「争いなんて恐ろしいわ。すぐになくなればいいのに。あの人たちだってできるなら早く故郷に帰りたいはずだもの」
そうは思っても、ビキには想像もつかない世界。
争いをなくしたいと思っても、きっと自分の力ではどうすることもできないとはわかっているだろう。
だからせめて、自分にできることを・・・
あの傷ついた人たちを、少しでもその救いになれるのなら
その手伝いをしようと思った。


島へと逃れてくる海の向こうの人間達は日に日に増えていくばかりであった。
元々人口の少ないこの島ではあるが、このまま難民が増え続ければ、島民の負担も大きくなるのは目に見えていた。
所詮はよそ者。
不満を漏らすものも増え始めていた。
サカミマの中にもそうした不安な感情は渦巻いていた。
さらにそれを高めたのが、難民の一人から聞いたある情報であった。
大きな四大勢力の一つ、金酉(こがねどり)がこの島を属島にするために兵隊を送り込んでくるという情報であった。
男はその金酉の者であり、民を戦いの道具としてしか扱わない王のやり方に耐え切れなくなり、必死で逃げ出してきたという。
金酉の王は、武者王と呼ばれ、戦で多く勝つことこそがステータスだという考えを持ち、武力こそがすべてであり、民は戦いの中でこそその真価を発揮するものだと主張していた。
力あるものはどんどん出世できるが、そうでない力なきものには、容赦なかった。
戦えないものに生きる価値などない。
それが金酉の考えであり、それに耐えられない彼らのような者は、海を越え、はるかな地へと逃げようとしたのだ。

「すまない・・・あんたらに迷惑をかけたくなかったが・・・」
うな垂れる男にサカミマは言った。
「謝られても、どうしようもないですよ。逃げるだけでは終わらないこともあるんですよ。
それで、いつごろやつらはやってくるのか、わかりますか?」
「数日以内には、連中ならきっと、すぐにでもやってくるだろう。金酉の選ばれた兵士の筋力ならば
俺らの何倍も早く船をこげるはずだ」
男の話が真実であるか、実際に金酉がこの島を制圧にやってくるか、ほんとのところまだわからなかった。
だが、警戒するに越したことはない。
サカミマはすぐに島の代表である長にそのことを伝え、各家の者にも、心構えをしておくようにと伝えに走った。

「いっそなにも、もう誰もあの向こうからやってこなければいいんですが」
その翌日、不安は本当になる。

島民たちが不安な表情で見守る中、三隻の小型船が島へとやってきた。
船から下りてきたのは、みな筋骨逞しい男達で、黄色い甲冑を身に纏い、手には重々しい武器が見える。

「今日よりこの島は我らが尊王武者王の領地となった!」
先に降り立ったリーダー格の兵士が野太い声でそう発した。
「な、なに?」
海岸に集まった島民たちはざわざわとざわめいた。兵士の言葉がすぐには理解できなかったからだ。
「ちょっとあんた何を言っているんだ?」
島民の一人が声を上げる。
それを沈黙させる兵士の武器を振り下ろす音。
「貴様ら下の連中に口答えする権利はない!我らが王が従順な武器を欲している!
それになれるかもしれぬ貴様らは幸福であるぞ」

なるほどそういうことか・・・
サカミマは兵士に細めた目を向けながら思っていた。
あれだけの人間が逃げてきたのだ、自分たちこの島の人間をその代わりにしようとしているのだろうか。
しかしなぜ、戦いとは無縁のこの島に?
それほど切羽詰っている状況なのだろうか、金酉は。
他の勢力がどのような状態かわからないから憶測でしかないのだが。

ざわざわとしている海岸に集まった住民たちを品定めするように、武器を威嚇するように向けながら、兵士達は近づいてきた。
「何人かはすぐに来てもらうぞ」
即戦力になりそうな男はいないかと、リーダー格の男はジロジロと眺めながらゆっくりと歩いてきた。
その間、他の兵士達は武器を島民たちに向け、ずっと威嚇している。
非武装の島の人間は、ただ立ち尽くしていただけだった。
その様子を見ていたサカミマは歯軋りするのみの自分が歯がゆかった。

リーダー格の男が、一人の男の前に来た時、ぴたりと止まり、声を出した。
「ふむ、貴様はなかなかいい体をしている。武器に選んでやろうぞ」
「おおっ、そいつは光栄じゃのぅ!ワシもたった今、お前を相手に選んだところじゃ!」
「なに?」
兵士の男の前で笑うその男は、兵士よりも大柄の男。日に焼けた地肌は鍛えられた筋肉で山のように盛り上がっている。嬉しそうに無邪気な子供のように、白い歯を見せてニカッと笑う。
その態度に、リーダーの兵士は不愉快そうな表情に顔を歪めていた。

「ぐわっっ、貴様!なにをする!」
男に手首を掴まれ、兵士の男は苦しそうな声を上げ、それを振りほどこうとするが、男の力がよほど強いのか、それを振りほどけず、片方の自由な手で、男に殴りかかろうとした。
が、その手も男にあっさりと掴まれ、両手の自由は完全に奪われた状態になった。
「おのれ、我らに抵抗してただで済むと思うな!下の者がっっ」
足払いも頭突きも、男にはまったくきかなかった。逆に攻撃をしかけた兵士の男のほうが痛みに顔を歪めていた。

「ちょっとちょっと、オイラを無視しといて、アホなチュウビに目をつけるってどういうことよ?
オッサンの目は節穴?」

「ぐわっっ」
「ぎゃっ」
兵士達が次々と悲鳴を上げた。
兵士達の目にどんぐりサイズの石が当たった跡が。
兵士達がいっせいに目を向けた先にいたのは、台形型の岩の上に腰掛けた十三、四歳くらいの少年がいた。
少年の手にはパチンコと、お手玉のように手の上で遊ばせている小石。
「このガキィーー」
顔を赤くした兵士達が武器の槍を向けながら、岩の上の少年へと動く。
少年は笑みを浮かべながら、また石の弾丸を兵士達の眉間にぶつける
「このっ」
兵士の攻撃を岩の上で身軽に舞いながら、それをかわす少年は
槍の上に乗っかり、その上を走りながら、兵士の頭を足蹴に空高く舞った。
砂浜へと着地した時、いっせいに岩にと向かった兵士達は、少年に背を向けた状態で
今だとばかりに少年は足元の石を足ですくい上げ、パチンコでそれを次々に飛ばす。
「ぐあっ」「このっ」
怒りの表情で振り返る兵士達をバカにするように、少年は笑いながら石の弾丸を飛ばしまくる。

「おいゼンビ!お前ばっかり楽しんでズルイぞ!」
「ぐわぁっ!」
リーダー格の兵士を捕らえていた男が声を出す、同時にリーダー格の兵士の男が苦痛の声を上げた。
手首をおもいきりひねられ、次の瞬間はリーダー格の兵士の男の体は宙を舞っていた。

「ぐはぁっ」
砂の上に兵士の男の胃液が吐かれた。
「まっとったぞ、この時を!さあ暴れるぞ」
「下の者のくせに・・・金酉に逆らう者には死の罰だ!」
兵士達は武器を振り上げ、海岸にいる島民たちに襲い掛かってきた。

「(ああ、最悪だ。・・・しかたない)」
サカミマは胸元に隠していた農作業用の鎌を手に、兵士達の前に飛び出した。


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