物語が始まるのは周囲を海に囲まれた小さな小さな島から
まだその島が「Z島(ぜっととう)」と呼ばれる前の時代。

その小さな島で一組の男女が出会うことになる。
後の世を騒がせる存在になるその男は、今はまだこの島で、ある人物の死を嘆いていた。
男は一人で、この島のずっとずっと深い山奥で、たった一人で生きていた。
少し前までは一人ではなかった。
自分を育ててくれた親であり、でも生みの親ではなかった。
だが純粋な育て親でもなかったのだ、彼にとってその老女は
なによりも恐ろしく、なによりも憎むべく、なによりもこの手で倒したいと強く願った
彼の中のその狭い世界の中での、最大の大きな敵であった。
その老女も先日歳を老い、老いによって命を終えた。
老女を倒すことを夢見て、支えにして生きてきた彼にとってこれ以上の最悪な出来事はなかったのだ。
その想いは、この先どこへ向かうことになるのだろうか・・・・・・




「ビキ!どこへ行くのですか?」
この島の青年サカミマは、自分のよく見知る少女を見かけ声をかけた。
「あっ、サカミマさん!」
彼の声でビキと呼ばれた少女は立ち止まった。
手には大きな麦藁帽子ほどの籠を持っていた。
少女は焦点の定まらない目で、青年を見て笑みを浮かべた。
「ちょっと山まで山菜を採りに行こうと思って」
まるでその行為を日常のように話す少女に青年は心配げな顔を向けた。
「山菜採りって、大丈夫ですか?ビキ目があまり見えないでしょう」
心配する彼に少女は笑顔で首を横に振る。
「大丈夫よ、一度行ったことがあるから。ありがとうサカミマさん心配してくれて」
「ほんとうに大丈夫ですか?山にはなにがあるかわからないのですよ」
「ほんとうに大丈夫。私だってちゃんとやれるんだって、お父さんを安心させたいの。
だから、ほんとうに、心配しないで・・・それじゃあ」
笑顔で少女は山道へと向かった。
サカミマは心配な心ながら、彼女の背を見送った。


ビキはゆっくりとした足取りで山道へと入っていった。
もともと人口の少ない小さな島だが、そこは特に人の通いもない住居も小屋も田畑もない。
ちゃんとした道ではない、道といえば獣道。
容易に通れる道ではないが、それを少しずつゆっくりと進んでいく。
目があまり見えていないビキの目には、普通の人間の目でさえ暗く感じる山道は、非常に暗く重い世界だった。
必死で影をとらえながら、障害物を手で払いのけ、注意深く進んでいく。
こういった人が入らない場所だからこそ、山菜もたくさんあるはず。
できるならこの籠をいっぱいにして帰りたいと思っていた。

ビキは十六歳の娘。父親と二人暮しをしていた。
生まれながら視力の弱かったビキだが、優しく愛情深く育ててくれた父親の存在もあり、幸せに暮らしてきた。
大きな幸せもないこの島の生活だが、彼女にとってそれは十分であり、父が元気で幸せに生きてくれさえすれば、それ以上望むものなどなかった。
自分より二歳ほど年上になるサカミマは幼い頃からのなじみのものであり、彼女にとっては兄のような存在であった。
いつも優しく自分を気に掛けてくれる。
それは嬉しいことでもあったが、ビキはだからこそ自分でできることは自分でして、心配をかけまいと心がけていた。
父がいて、元気で生きていてくれることがなによりの幸せ
だが先日、その父が体を壊して今は養生の身だ。
自分のためにいっぱい働き、たくさんの愛をくれた父。
その父のために今度は自分がたくさんしてあげたい、そう強く思う。

数日前、父の好きな山菜を採って来ようと、ビキは山へと向かった。
人の行き交う山道には、山菜もあまり採れなかった。
そこで来たのがこの山だった。
ここは人がほとんど行き交わない、そのくせ山菜はたくさんある。
いわば穴場だ、そうであろうか?
人が立ち寄らないのには当然わけがある。
恐ろしいわけがあるのだ、だがそれを、ビキは知らなかった。


「あ、あった、これも、これもだわ」
じっと目をこらしながら、雑草を分けながら、慎重に山菜だけを採っていく。
もっと奥にはたくさんの山菜がありそうだ。
ビキはもう少しと山の奥へと進んでいった。
ザカザカ・・・
ビキの向かう先からなにか草木を揺らす音がした。
それは大きな獣の音。
「なに・・・かしら」
ビキは足を止めて、そのほうを見た。
ぼんやりとする目で、とらえた影は、とても大きく
むーんと漂ってくる獣臭。
「え・・・」
それは危険な獣だと、ビキにも感じ取れた。
巨大な影はビキに気づき、息を荒げた。
ビキに向かい突進してくるその獣は巨大な暴れ猪。
周囲の草木をなぎ倒し、ビキのほうへと突進してきた。
「う、あ・・・」
危険が迫っているのはわかる、でも、腰を抜かした彼女はそのまま
突進してくるバケモノから逃れる術がなかった。

「(もうダメ・・・お父さんごめんなさい)」

「ブォオオオーーーー!!!」

「?!え・・・」
死を覚悟したビキが一瞬目を伏せた直後、激しい獣の声がした。
ゆっくりと目を開けたビキのぼやける視界に映ったのは
自分の目の前で止まった巨大猪が激しく首を振りながら、まるで苦しがっているように見えた。
天上より、なにか別の影を感じた。
それは猪よりずっと小さく、自分と同じくらいの影、つまり人間の影。
ザッ
ビキのすぐ前で、地面の草木を踏む音。
ビキの目が捉えた影は、やはり人で、手にはキラリと光る刃物があった。
ビキはゆっくりとその影を見た、輪郭から男性・・・まだ十代前半の少年のようにも思われる。
獣にも負けない獣臭を放つその少年は、島に住む他の少年とは全然違うものを感じた。
「おいこら、もう逃がさねーぞ、俺様のメシィ!!」
「あっ」
ビキが小さな声を上げたが、少年はそれに気づかないのか、一切ビキには振り向かず
目の前の巨大猪に飛び掛っていった。
まるで獣のように山の中を翔り、木から木へと、ムササビのように獣のように飛び回り
何度も何度も猪へと、刃をたたきつけた。
猪の抵抗もすべてかわしきり、ついに猪を絶命させた少年はその瞬間雄たけびをあげ、喜びを全身で示していた。
「へへへ、こいつはひさしぶりの馳走だな」
下品に涎をすする音をさせながら、少年は小柄な体でありながら、そのでかすぎるバケモノ(彼の言う馳走)を体に巻きつけていた縄を使って、引きずっていった。
「あっ、あの・・・」
ビキが呼び止めたが、少年は一度も振り向くことなく山の中へと消えていった。
ビキはしばらく抜けた腰のまま、腰を抜かしたときにこぼれた山菜を再び籠の中に放り込むと
足が落ち着くとゆっくりと立ち上がり、山を下っていった。
今起きたことが、少し夢のようでもあり、でも現実で、ビキの心臓は大きな音を上げていた。
その音はしばらく、止んでくれなかった。

家に戻り、少し戻りが遅くなったビキを心配そうな顔で迎えた父に、いつものように笑顔で「ただいま」をつげて
持ち帰った山菜を調理する。
そうしながら、ビキが考えていたのはあの山での出来事。
「あの人は・・・だれなのかしら?」
あの背格好に、あの声
ビキの知る人物ではないことはたしかだった。
小さな島だが、ビキもこの島に住む人すべてを把握しているわけではない。
せいぜい自分の周囲の家のもの程度。
「私・・・あの人がいなかったら、死んでいたかもしれないのね」
あの瞬間、ビキは死を覚悟した。それほどの危険を感じた。
あの謎の少年にビキは救われたのだ。
おそらく、あの少年はビキを助けたとか微塵も思ってないだろうが、ビキはそう思っていた。
感謝していた。

「今度会ったら、お礼を言わなくちゃ・・・、でもだれなのかしら?
サカミマさんなら知っているかしら?」
食事を終え、食器を片しながら、ビキはずっとそのことを考えていた、ずっとあの少年のことを。
その夜は、なかなか眠りにつけなかった。


月の光しか照らさない暗い山の奥のそこ。
周囲は大人一人分の丈の雑草が凶器のように生え、その小さな木の小屋を囲っていた。
その小屋は、外からは見えないほど溶け込んでいた。
荒れ放題になっている小屋は、周囲の草や木の根が屋内へと侵入していた。
それは人が住めるレベルのものではなかった、普通のものでならばだ。
彼にとってはたいした問題ではないのだろう。
その彼というのは
身長はビキよりも少し高いくらいの、155前後くらいの小柄な少年。
髪はボサボサに伸び、大雑把に木の紐で後ろに一つ括りにしている。
大きく見開いた茶色い目は、ギラギラと獣のような激しさを放つ。
薄汚れた肌に纏うのは薄汚いボロキレのような衣服、いや衣服とも呼べないもの。
その小屋を出てすぐのとこに横たわる巨大な猪に向かって、刃物を走らせる。
小さな体にどこにあるのかそのバカ力は
巨大な体をまっぷたつにして、その破片を誇らしげに月に見せびらかすように頭の上に掲げた。
滴る血をそのままに、それを持ったまま少年は小屋のすぐとなりにある盛り上がった土の上へとやってきた。
その中央には小さな木片が立てられ、その上に猪の血を滴らせた。
「どうよ、ババァ。俺様がしとめたんだぜ」
にやにやと嬉しそうに誇らしげに、土の下のそれに言う。
血は黒い土の中にじわじわと広がっていった。
少しして、少年の笑顔はぴたっと消え、くそっと呻くと手にしていた獣の破片を闇の中へと投げつけた。
「なにをやっても、もう勝てねーってのかよ?!おいっ!
俺様は、なにと戦えばいーんだよ?!」
月に吼えた。
少年にだけ聞こえてきた声
地獄から、響いてくるその老女の声が
行き場のない少年の心をかき乱した。

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