「お兄ちゃん、こっちこっち、そのままじっとしていてね」
愛らしい少女に言われるまま、兄と呼ばれた髪の長い少年は大人しく少女の前に座った。手持ちの櫛で少年の長くて重い髪を丁寧にとかす。
「あっちこっち汚れてる。なにやってたの?」
まるで姉のような口ぶりで、少女は一つ違いの兄の汚れた姿を指摘する。後ろ向きのまま髪をとかされながら少年は「へへ、ちょっとなー」と鼻頭をこすりながら答える。
「剣の稽古だよ。結婚式の当日にさ、相手に挑んでやろうと思って。かわいい妹は渡さん! どうしても奪いたければオレを倒してみろってな」
「むちゃだよ、お兄ちゃんたいして強くないのに。相手の人は弓の名手なんだって、きっと勝負開始と同時にお兄ちゃん一発で負けちゃうね」
「なんだよソレ! そこまでオレは…弱くねーって」
くすくすと笑う妹に、情けなくも少年の語尾はいじっぱりつつも弱まる。剣の腕もケンカも大して強くないことは少ながらず自覚している。少年は同じ年代の少年達よりも小柄なほうで、女の子にも見える男らしさからはほど遠い顔つきだった。少女とは顔つきもそっくりで、兄と妹というより姉妹と言ったほうが初対面の者ならしっくりくるだろう。そういった己の容姿は少年にとってはコンプレックスでしかなかった。できるだけ強く逞しく男らしく成長したいと常々思っている。特に、好きな妹の前ではかっこよく頼りがいのある兄でいたいと願う。
少年の名は【アオ】。星を守護する一部族の【ドゥルブ族】の長の息子だ。一つ違いの妹アイは近々嫁ぐことになる。相手はアオと同じ十五歳で、同じく星を守護する一族【ナイム族】の長の子だ。直接会ったことはないが、ナイム一の弓の使い手で、切れ長の目の男前らしい。まるでアオとは対極のような男だ、実際会ったことはないが。縁談はずいぶん前に決まっていた事だが、唯一人アオだけは反対していた。アイはまだ幼いし、なにより、離れたくなかった。などとごねても、意見が通るわけがなく、「お前もいい加減大人になれ」と父にあきれながら説得させられた。
「はあ、やっぱやだなー、オレ。…結婚式なんて、こなけりゃいいのに」
イヤだなんて思っているのはアオだけだった。せめてアイがイヤだと言ってくれれば、堂々と結婚式をぶち壊せるのに。ぶすくれるアオに、背中からアイは「お兄ちゃん」と優しく声をかける。
「そんな寂しいこと言わないでよ。永遠の別れじゃないんだから。長の娘は他部族へ嫁ぐのが草原の掟でしょう。それにね、私の結婚相手ならお兄ちゃんにとっても家族同然になるよね。きっと仲良くなれるんじゃないかな? 歳も同じ歳だし、男同士の友情をきっと築けるんじゃないかな」
アイのほうが自分よりずっと大人だ。自覚するとますます切なく、自分が情けなくなる。
「ふう、できたー。どう?お兄ちゃん」
髪を編み終わったアイが立ち上がる。アオの長い髪は後ろに二つで三つ編みにしっかりと編みこまれていた。簡単にほどけそうにないくらい固く編みこまれている。
「おおっ、器用だなアイは。いいぞコレ、動きやすくて」
くるっと横に回転したり、バク転をしてアクションをとるアオ。動きにあわせて三つ編みが踊る。
「ふふ、それにね、私の願いも一緒に編みこんであるから。お兄ちゃんほどいちゃだめだよ」
「ああ、ありがとうアイ、一生ほどくもんか」
とアオは嬉しそうに笑った。「それはさすがにむりじゃない?」と言いながら、アオの笑顔でアイも幸せそうな笑顔になった。
いよいよアイが嫁入りする日がやってきた。先に寺院で洗礼の儀を受ける。花婿はすでに済ませているらしい。ナイム側から婚礼の儀をあげる場所は指示される。寺院にて場所を聞き、花嫁ご一行であるドゥルブの者は家畜やゲルといった一式を携えて、指定の場所へ向う。
ゲルを組み立て、早々に準備を始める。アイは花嫁の衣装へと着替え、他の者は結婚式の準備をする。花婿一行をもてなす料理と、捧げる家畜の用意をする。アオもその手伝いをしながら、アイの様子をちょくちょくのぞきにきていた。
草原の民に時間の概念がなく、約束事も大まかな範囲で決められる。日の出、日中、日没、星の刻といった具合だ。今回の結婚式も日中から日没ごろという約束であった。広い範囲を移動する草原の民なので、その予定も確実ではない。
「おい、アイちょっと…」
準備の合間を見計らって、アオがアイを呼び出す。
「なぁに、お兄ちゃん」
「お前とオレってよく似てるって言われてるだろ。ちょっと入れ替わってみないか?」
アオの提案にアイはきょとーんとなる。つまり衣装をとっかえようという話だ。アオは花嫁の衣装に抵抗がありそうなものなのに、普段から女性っぽいといわれる顔つきや小柄な体型はコンプレックスのはずだ。別にそんな趣味があるというわけではなく、アオの思惑はこうだった。相手の花婿が入れ替わったアオとアイに気づかなければ、お前は見る目のないダメな男だ!と指摘してやろうとのことだ。実に女々しい、くだらない。さすがにアイも同意するわけにはいかず「ダメよ、それはさすがに怒られちゃうよ」と言って断った。
「ちぇっ、なんとかぎゃふんと言わせてやりてーんだけどな…」
腕っ節では敵わないことは、アオも自覚している。せめて人並に腕力でもあれば、男らしく一騎打ちが挑めるというのに。あっさりと、結婚を認めるのはしゃくにさわる。かわいがってきた大事なたった一人の妹だ、嫁に出すのは今でも悔しく思う。それでもいつまでもだだをこねているだけの幼いアオじゃない。本当は、ちゃんと祝福して送り出してやりたい。
「アイ、お祝いっていうかさ餞別」
そう言ってアオがアイの首にかけたのは、中心にキラリと輝く石のついたペンダントだった。
「金剛石ってわけにはいかないから、それに似た石を使って作ってみたんだ」
「お兄ちゃんありがとう。宝物にするね」
嬉しそうに幸せそうにアイが笑った。その笑顔に、アオの心も幸福感で満たされる。
花嫁一行の待つゲルのほうへと、向ってくる集団、花婿の集団…ではなかった。武装した騎馬部隊と、それを率いるリーダー格らしき漆黒のマントを纏った男は巨大な鎌を携えている。男にしっかりと付き従うのは銀色の毛の大柄の狼で、その狼も群れを率いている。もちろん花婿のナイムの者たちではなく、アグォーエルの命を受け、金剛石を奪う為に動いていたボヒルドゥルだった。
異変に気づいて、結婚式の準備をしていた女性たちは子供や老人をつれてゲルの中に逃げ込む。長を始めとする男たちはすぐに武器を取りに行き、臨戦態勢になる。
馬の蹄の音、武器がぶつかり合う音、家畜のいななきに、よその獣の臭い。アオも嫌な異常を感じとる。
アイに身を潜めるように告げて、外に出る。
「な、なんだよ、これ」
信じられない光景に絶句する。草原に広がる朱。武装した騎馬たちが無情にもドゥルブの者を殺していく。ドゥルブの男たちはそれぞれの武器を手に応戦するが、武力は敵のほうが圧倒的だった。次々に倒されていく。結婚式の準備で浮かれていた状況で、はなから戦闘する気満々の相手には心理面から言っても不利だった。
「狩れ」
漆黒のマント姿の鎌を携えた男の指示で、狼たちが攻撃に加わる。素早く連携をとり、ドゥルブの武装兵を沈めていく。
「ど、どうして狼たちが…」
アオにとっては信じがたい、信じられない光景だった。草原の民は狼は誇り高い生き物として崇拝する。その狼たちが確実な殺意を持って、自分の家族達を殺していっているのだ。
指揮を取るのは漆黒のマント姿の男。戦いの中でも涼やかな表情を崩さない、どころか、かすかに口元には笑みが滲む。
すぐに応戦にと動き出そうとしたアオに、父である族長が呼び止める。
「アオ! お前はすぐにアイを連れて逃げろ」
「父さん、なんなんだよ、アイツら。まさかアイツが花婿じゃないよな」
そんなことはありはしないと思いながらも。父はもちろんそれを否定する。
「ああ、奴らは【黒痣】の手の者だ」
「黒痣…」
見たことはないが聞いたことがある。顔を黒い痣に覆われた異形のバケモノのような男、自身を【アグォーエル】などと偉大な王であると名乗っているとんでもない男の存在を。金剛石をすべて手にし、草原を征服しようとしているらしいと。
ドゥルブの金剛石を絶対に渡すわけにはいかない。以前から父からもそう言い聞かせられてきた。
「だったらなおさら、オレも戦う!」
「ダメだ! アオ、お前は金剛石とアイを守るんだ。己の使命を果たせ」
涙の滲んだ父の目は赤く充血していた。アオは「わかった」と頷くしかなかった。すぐに父に背を向け自分の武器を置いてあるゲルへと走る。直後父の悲鳴が聞こえた。
「父さん!」
振り向き駆け寄りそうなアオを、決死の表情で父は拒む。流血しながらも、まだ立っている。
「頼んだぞ」
腹の奥から逆流してきそうな苦しさをのど元で押しとどめて、アオは背を向けゲルへと走った。
「くそっ、なんでこんなことになってんだよ、ふざけんな」
怒りと悲しみで腕が震えるが、アオは自分のもの入れの中から愛用の剣を両腕にはめる。籠手も兼ねているアオの剣は腕の内側に紐で縛り固定する。
その間、戦いの音は恐ろしいまでにやまない。破壊と殺戮の音、仲間たちの悲鳴断末魔、家畜たちのパニックしている鳴き声。
「(アイ、見つかるなよ。すぐに行くからな)」
無事を祈りながら、アイの元へ走る
「いやぁぁぁああーーーっっ」
「アイ?!」
心臓を握りつぶされそうなショックがアオを襲う。今のただならぬ悲鳴はアイの声だ。アイではないと否定したいが、間違いなく妹のアイの声だ。音を立てるように全身の血液が逆流する。悲鳴のした先には無惨に横たわる仲間たちの姿があった。
「くぅっ」
目を見開き、体が引き裂かれ、確認しなくても、死んでいることは一目瞭然だった。がここでショックを受け、泣き崩れたり呆然としているわけにはいかない。ただ早くアイの元へ、大切な妹を守るために向う。
「アイ!」
アイが潜んでいたゲルの中は、周囲に鮮血が散り、酷く血の臭いがした。そして今目の前の光景に、アオは我が目を疑いたかった。
真紅の鎌はどす黒く濡れ、その持ち主はアイを片手で抱き上げたまま、不気味に笑っている。
「お前、いつの間に、…アイ…」
アオの目に絶望の色が広がる。アオが武器を取りに走ってるわずかな時間のすきに、あの部隊のリーダーと思われる漆黒のマントの男によって、アイは囚われ…
「ウソだろ…」
恐怖と絶望の音が鳴り響く。血に染まった花嫁姿の妹はだらんと力なく腕は垂れ下がり、すでに事切れていた。
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