あの変な声が聞こえて、その時、あたしの頭の中では一瞬ある景色が浮かんだ。
それはBエリアと思われる街並みで、どこかの通りを歩いている。
あたしが歩く先から、歩いてくるのは……ビケさん!?
「よぉ、やっと会えたな、待ちわびたぜ、温羅」
あたしはビケさんに向かって、そう言っていた。


「なにをぼんやり考え込んでいるの?」
「はっっ!」
ビケさんの声でハッと我に返る。ひゃあ、目の前にビケさんのステキな顔があって、また心拍数跳ね上がり傾向にあり!
「私の事だけ考えてなさい」
「は、はい!えっ」
真っ赤になるあたしの瞼に頬に、ビケさんの親指がなぞるように触れる。
反射的に閉じた瞼がぷるぷる、ほっぺも唇も、ぶるぶる震えちゃっているのが自分でわかるから余計恥ずかしい。その指が首筋、耳の裏へとなぞられたのと同時に、薄く瞼を開けかけたあたしの前に数センチの距離でビケさんの顔。
「ビッ…」
ビケさんと言いかけたあたしの声は飲み込むように止められた。
それは、その理由は……、あたしの唇に軽い圧迫感、数秒なにがなんだか混乱していたけど、あたしの唇に触れているのは、ビケさんの唇……つまり……。
キス?! キッス?! 接吻?! 口付け?!
恋愛ドラマとか少女漫画特有の演出とかじゃなくって、ほんとにあったのか?!
なんてバカな思考のあたしが目をくるくるさせていると、ふっと影があたしから離れた。
「どうしたの?気分悪い?」
心配げなビケさんがあたしを覗き込んでいる。
あああ!違う!違うんです!そんなわけないそんなわけないです!
あたしは慌てて、首をぶんぶかと左右に振りまくって
「…の逆、です……」
たいして長くもない睫がウザイほど目に映るほど目を瞑りそうなほど伏せ目がちになる。
あたしめっちゃ恥ずかしいこと言ってしまった?
でもほんとのことだもの。ほんとうのこと。
恋する乙女にとって、好きな人からキスされるのって、天にも昇るほどの夢のような体験だもの。
恋どころか、友人も仲間も、誰一人いなかったあたしにとって、あたしを好きになってくれる人が現れること自体が多大な夢だったから、だからありえない現実に、いまだ心が戸惑う。
「そう、ならよかった。あんなことがあったから、私に触れられるのにも抵抗があるんじゃないかって思っていたから」
!変質者のこと。
ビケさんのおかげであたしはすっかり忘れていた。あの恐怖も嫌悪もちっとも後ひいてないことに気づいた。
そうなんだ!ビケさんへの想いが、あたし自身の救いにもなっていたんだ。
あたしはまた首を振って、まともに見れないほど恥ずかしいけど、ビケさんの足元を見ながら答える。
「そんなわけ……ない。ビケさんは、違うもの」
あんな変質者とビケさんが一緒なわけない。次元が違うどころの話じゃない。
「あたし……ビケさん、には……」
言いかけたあたしの言葉を止めたのは、またしても心地良い圧迫。
「言わなくてもわかっているから」
!ビケさんっ!
あたしを抱きしめて、白く長い指があたしの髪をすく様に触れる。
髪から瞼、目の下へと、花びらがふれるような優しいキスを感じて……。
あたしのちょっと硬めの黒い髪と、ビケさんの柔らかい金色の髪が絡み合う。
白いベッドの上で見上げた先に映るのは、赤いライトに輪郭をなぞられたビケさんの麗しき姿。
赤い灯りを反射したビケさんの瞳に、なんだか吸い込まれていきそうな錯覚。
変質者や暴漢どもに触られた時は、ひたすら嫌悪と恐怖しかなかったのに。
あの時は、あたしの体があたしのものじゃなけりゃいいのにっ、とさえ願ったのに。
今は……
ビケさんが触れてくれるこの体が、あたしの体でよかったと感じている。
目に見えているわけじゃないのに、すごく実感しているのは、血管開いて、瞳孔も開いているかもってこと。
あたしの体は全力で、五感駆使してビケさんを感じようとしている。
ビケさんをもっと感じたいと思うけど、心拍数上がりすぎてこのままマジヘブンに直行もおかしくない事態。
だけど、それでもいいかも。ビケさんの胸の中で死ねるなら本望ですから。
窒息しそうなほど深いキス、このまま死んでもいい、マジで意識が飛びそうなギリギリのところまでこの愛で苦しめて欲しい。
なんにもしてないはずなのに、のあたしの胸は上下して、口は情けなく開いたまま。口端からこぼれるものを、ビケさんが舌先ですくってくれる。
「あの…っごめんなさい……」
恥ずかしさからこぼれる謝罪。
「なにを謝っているの? 生まれてきたことについて?」
え?……
「今更変えられようのないこと…受け入れるしかないのよ」
「……はい…」
ビケさんの不思議な言葉、あたしはよくわからないまま頷いた。
「私だけを見て、私だけを信じていればいい…」
ビケさん、はい・・・あたしはビケさんしか見ていない、ビケさんを信じている、ビケさんがあたしのすべてだから。
ビケさんへの想いだけが、あたしである証だから。
「ふふっ、そうもっと私を好きになればいい。そのほうが……」
ビケさん、あたしもっとビケさんのこと好きになりたい。少し先のあたしに、今のあたしが説教されるくらい、少し先のあたしが今のあたしよりビケさんを好きになっていればいいのに。
じゃあ、もっと未来のあたしは……?

初恋が叶った夜、愛しい人に抱かれながら、悦びの中甘い世界を泳いだ。


運命の王子様&恩人様のビケさんと再会して、さらに両想いになった。
それだけで、大事件なわけですが、さらにわたくし…そのビケさんと一緒に暮らすことになりました。
ビケさんのおうちにですよ……、ええっと、俗に言うあれですか?
同棲!?
エプロンしめて、キッチンに立って朝食を作っている今現在。
午前五時…、ビケさんは六時には起きるから、六時ジャストにできあがるように。
料理は得意じゃないけど、好物のビーフシチューはわりと得意なんですぶれんで○〜♪
なんでだろう、お料理していると鼻歌歌っちゃうのは。きっとそれは料理のせいじゃなくて、大好きな人のことを考えながら作っているからなんだと思う。るんるん♪
「あら、いい匂いね」
あたしの右肩らへんから聞こえるその声は!
「ひゃあっ、ビビビッ…」
「ビビビッじゃなくて、ビケよ。おはようリンネ」
「おおおおおおはようございます!!ああああ、あの」
「少し落ち着いたらどうなの? おたまから垂れているわよ」
「うわっあ」
ビケさんに指摘されて気づく、危うく下に茶色いドロっとした汁を垂らしてしまうところだった。
「ビーフシチューね」
「は、はい。あの…、ビケさんはビーフシチュー嫌いですか?」
大好きなビーフシチューを嫌う人などいまいとあたしは固く信じていますが、もし、もしもビケさんのお気に召す物でなければどうしようという不安もなきにしもあらずで。
「朝食は味噌汁派だけど、でも悪くないんじゃない?」
そ、そっかー。よかった。なるほどビケさんって朝は味噌汁なのね。・・・ああ味噌汁に嫉妬!
器にシチューを注いで、白い皿にロールパンをのせて、カップにミルクを注ぐ。
白いテーブルにまたビーフシチューの黒さが映える。おいしそうに見えるのが50%アップ。
味見した時は、ばっちりだったから、うん、大丈夫のはずなんだけど。
あたしの味覚とビケさんの味覚は違うだろうから……心配で。
ビケさんが、ビーフシチューを口に運ぶのを、あたしはツバを飲み込んで見守る。
ビケさんは、一口飲んで、スプーンをかちゃりとお皿に置いた。!まさか
「ビケさん、お口にあわなかっ「悪くないわ」
え?
あたしへと視線を向けたビケさんがもう一度口を開く。
「おいしいわよ、リンネ」
パァァァ!マンガ的表現なら今あたしの頭上に花が咲いて飛びまくっていることでしょう。
パンと両手を叩くように握り締めて、あたしは喜び絶頂。
「よ、よかったーー、それじゃああたしも…いただきますっと」
ビケさんの反応で一安心したあたしは、すぐにでも食べたかったそれへとスプーンを運ぶ。
はぐっ
んん、おいしい〜v
自分でおいしいのも嬉しいけど、大好きな人にそう言ってもらえる喜びってのは別格だ。
あたし、生きててよかった。ほんとにそう思えるのは、ビケさんのおかげだ。
「はー、おいしかった。ごちそうさま」
朝食を終えて、片そうとしたあたしをビケさんが引き止める。
「待ちなさい、リンネあなた口元に」
「へ?」
あたしが気づくより早く、ビケさんの指がそれを拭った。あたしの口はしについていたビーフシチュー。
てっ、ああっ恥ずかしすぎ!あたしってば乙女失格にもほどがあるよ。
「ほんと、リンネは口元に締まりがなさすぎね」
呆れたように微笑するビケさん。ああ、あたし厭きられた。当たり前か、はぁぁ。
ビケさんは、あたしの口元についていたそれを、指先で拭ったそれをぺろっと?!
「ごちそうさま、おいしかったわよ」
ビケさん!!!
ああちくしょう、あたしの口についていたビーフシチューに嫉妬!

ビケさんの愛に包まれて、日々は重なっていく。
冬が来て、年を越す。そしてやってきた二月三日、ビケさんと向かえる初めてのあたしのバースディ。ふわりと白いクリームで飾られた小さな丸いケーキを前にして、あたしは思いだしてしまった。
「おばあちゃん…」
「おばあちゃん、がなに?」
「あっ」
テーブルを挟んで座る向かい側のビケさんの問いかけで、口から漏れていたことに気づかされた。
あたしは、まだビケさんにちゃんと話していなかった。どうして、AエリアからこのBエリアに来ることになったのか、その理由を。変質者のことは、だいたいは察してくれているようだけど、おばあちゃんに会いに来たということは話していない。
ケーキに手をつける前に、あたしはビケさんにそのことをぽつりと話し始めた。
「あの、ビケさん。あたし実はBエリアに来たのは、おばあちゃんに会うためだったんです」
「そう」
ビケさんはそれだけ言って、興味なさそうな表情でケーキへとフォークを伸ばした。
も、もしかして、あんまり興味ないのかな?あたしのことなんて……、そんなことないか、気にしすぎだよね。
そうは思っても、なんか気まずくて、あたしは口をつぐんでしまう。
「それで?」
「へ?」
突然口を開いたビケさんにどきっとする。
「どうしたいの?リンネは、会いたいの?おばあさんに」
ケーキからあたしへと映るビケさんの視線は、どことなく鋭く感じてしまう。その目力に負けてしまう。
「ううん、今はもう……」
あたしは首を振って、否定して
「おばあちゃんに会わなくてもよくなったから。あたしには、ビケさんがいてくれるから」
それが本心だった。ビケさんがいてくれる。あたしを一番に強く想ってくれる人。その人がいてくれるなら、あたしはおばあちゃんにすがる必要なんてないもの。ビケさんに会ってから、あたしはおばあちゃんのことをほとんど考えなくなった。ビケさんのことでいっぱいになったから。
「ふふ、そうね、そうでしょう。必要ないわあなたには」
ビケさんの表情が一変、笑顔になる。
「私だけを想っていればいい」
「ビケさん……」
ひゃー、どうしてそうあたしを難なく赤面させてくれるんですかーー!
あ、もしかして、ビケさん…ヤキモチだったのかな?たとえ相手がおばあちゃんであっても、焼いちゃうのかな?ビケさんってめっちゃ独占欲強い人ですか?!ひゃーー、もうあたしは身も心も魂も未来さえも、ビケさんに独占されたいですからっっ!
「顔が気持ち悪くなってるわよ、リンネ」
ひゃーー、ビケさんのせいですからっっ!

二月三日を迎えて、あたしは無事十六歳になった。
ビケさんからは、ケーキ以外プレゼントはなかったけど
「形が残るものにすがるなんて馬鹿げている」とのことで、納得。そうだよね、物なんて、いつかは朽ちていくものだもの。それよりも、永遠に変わらない心のほうが価値があるって。
永遠に変わらない心なんて、どこにあるのかな?
ううん、あるって断言できる気がする、今なら。
ビケさんを想うこの気持ちは、なにがあっても、もし世界が破滅したって、変わらないって思える。
ビケさんに言われるまで、特別な贈り物が欲しいvなんて思っていたあたしはバカな女その一でしかなかったんだ、と少し前の自分を蔑んだ。
その代わり、ビケさんにいっぱいいっぱい抱きしめてもらったしね!それ以上のプレゼントなんてないですよ。

誕生日から二日が経過。
ビケさんのとこに来てから、あたしはずーっとビケさんの家の中で過ごしている。たまに買い物だとかで外出はするけど、その程度で。
ビケさんはいつもいるわけじゃなくて、たまに半日近く外出することがある。お仕事なのかな?と思っているけど、実は、あたしいまだにビケさんが何者なのか、なにをしている人なのか、どこに出かけているのか、まったく知らない。ほんとは気になるし、知りたいですよ。
そのことについて訊ねたことはあるんだけど、「気にすることじゃないから」の一言ですまされてしまう始末。
あたしもそれ以上なにも聞けなくて、うざがられるのイヤだし。
「私を信じていないの?リンネは」
うっ、そんなこと言われると、やっぱり追求できないし。
ビケさんがいない間、あたしは心がぽっかりと寂しくなる。
掃除をしたり、徒歩一分のお店で買い物をしたり。一通りやること終えても、まだビケさんは戻らない。
「ハー、こんな時は……妄想かなー」もわもわもわ……

「ねーねー、パパはいつ帰るのー」
娘のレンゲは幼稚園から帰ってから、あの人が帰宅するまでいつもその問いを繰り返す。
本当にパパのことが好きなんだから、会えるのが待ちきれないらしい。でもそれは、あたしだって同じ、いや、負けてなどいない。
そわそわしているのはあたしも同じ。時計の針が七時を差す、鳩が飛び出すと同時に玄関の扉が開く。そこへと駆け出す娘。
「パパー、おかえりなさーい!」
スリッパを後ろに蹴り飛ばしながら、その人へと飛びつく娘。そのスリッパを拾いながら、あたしもその人を出迎える。
「お疲れ様、おかえりなさい」
「ただいま、レンゲ、リンネ」
ふわー、いつも見慣れているはずのその姿に、あたしは毎度胸をときめかせている。
ビケさん!
ビケさんの首へとしがみつくレンゲに、ビケさんがただいまのキスをおでこにする。すると「きゃあv」レンゲは興奮した悲鳴を上げてさらに喜ぶ。
「ちょっ」
ずるーい!あたしだって、と娘に嫉妬する母ってどうなんですか。
「あたしー、はやく大人になりたいなー。そしたらパパとケッコンできるもんー」
レンゲのいつもの口癖だけど、あたしはつっこむ。
「こらこら、できるわけないでしょ」
大人気ないとはわかりつつも、だめ!ビケさんはあたしのダンナさまなのよ。
五歳児に嫉妬はいかがなものか。でも嫉妬しちゃいます、大好きな旦那様v相手が誰であれ渡したくありません。
「ママ、またヤキモチやいてるー」
「うるさい、笑うな!」
だからムキになるなってば、五歳児に。
レンゲは隣に座るパパを見上げてしみじみと
「はー、あたしパパに似たかったなー。パパ似なら、すっごい美人になれたのにー」
ちらっとあたしを見て
「なんであたしママ似なのかなー」
「何言ってるの?レンゲ」
レンゲを抱き上げて、目線を並べるビケさん。
「あなたはママ似で正解なのよ。私のこの世で最も愛する人にそっくりだから、私もあなたが愛らしくて仕方がないの」
ビビビビッ…ビケさん!!

「てうわわわーーー」
わてわてと上気した顔を掌うちわで扇ぐ。
あああ、あたしってば、妄想とはいえ、ビケさんと結婚…さらに娘まで生まれているし、己の妄想のいきすぎっぷりに恥ずかしさを感じずにはいられない。
いやー、でもビケさんなら言ってくれそう。あたしに子供が生まれたらあたしに似るべきなのよね、ふふふ。
あ、でも妄想が現実になってもおかしくないんだよね、ビケさんとはそういう関係なんだし……
え、そういう関係ってつまり……
「内縁の妻?!」
「なにが?」
ひゃーーー!
ビケさんお帰りでーー?!
焦りで変な汗が吹き出る。
ビケさんが帰宅して、少ししてから、あたしはビケさんに相談しようと思っていたことを打ち明けた。
あたしも、十六になったし、いつまでもこのままじゃいけないかなって思っているので。
「ビケさん、あたし……働こうと思ってるんですけど」
学校辞めた身だし、ちゃんと勤労を……と、あたしだってビケさんにすがって生きるだけじゃいかんと自覚しているわけです、が。
ビケさんの返答は
「なに?したいことでもあるの?」
「え、それは別に……」
「必要ないわ。リンネ、あなたは余計なこと考えないでちょうだい。私の事だけ想っていればいいのよ」
「は、はい」
もしかして、あたし余計なこと言ったのかな?ビケさんに迷惑かけたくなくてって気持ちからなんだけど、そういう心配されるのって、男の人にとってはプライド傷つけられることになったりするんだろうか。
「わかった?」
ソファーに腰掛けるビケさんの上に座らせるように抱きしめられる。
ビケさんの目がすごく近い!長い睫の下の瞳の中にあたしが映る。その中に、小さなあたしが閉じ込められているみたい。閉じ込められてもいい、閉じ込められたい。
口付けられて、触れられて、……またあたしの中はビケさんで満たされる。
このままでいい、このままがいい。
あたしはビケさんしかいらない、ビケさんのことしか考えない、ずっと、この先ずっと、一生!



BACK  TOP  NEXT