それは目玉が前から後ろへぐるりと一回転するような感覚だった。
なに、ちょっと、これは夢?
扉を開けたそこにいたのは、あたしを見下ろす不気味な男。
ぎゅろっと見開かれて、充血した目は正常でない精神状態のように見える。
ぼこぼこの肌に、薄い眉毛、荒れた髪、黒ずんだ唇はわずかに開いてその隙間から見える舌が怪しく上下している。
人は見かけじゃないと思う、思うけど。
あたしはその人を見た瞬間、一気にぞわぞわとしたものが下から上へと肌の表面を走っていった。
恐怖、身の危険。
とっさに感じとったあたしは、一歩後退った。
そんなあたしを見下ろしたまま、男は嬉しそうににぃと口はしを吊り上げる。そこからは白くにごった唾液が滲んで垂れている。
「あ…」
男をじかに見てからは、あたしは次のセリフを失ってしまった。
なにを言えばいいのか、わからない。
「会いたかったよ、リンネちゃん……ずっと君を見てきたんだよ、いつも、どんな時も」
手紙ではあんなに嬉しかった言葉が、今はただ恐怖でしかない。
ガチガチガチ、その音はあたしの口から、ガタガタと震える歯がかち合う音のせい。
この距離でも、恐ろしいほど聞こえてくる。男のハァハァという荒い息づかいが。
「う…うう…」
男の目を見たまま、あたしは目を逸らすことさえできず、声さえ発せられずにいる。
「どんなに心待ちにしたか」
男の一歩は思っていたより大きかった。
その一歩で、あたしは完全に男の手に捕らわれてしまっていた。
充血して怖いほど白目部分が見えるその目は、あたしを飲みこんでしまいそうなほど攻撃的。
わざとらしいほどのハァハァという息遣いが耳の側で聞こえている。
べちょりと湿った男の肌があたしの肌に触れる。それはもう意識がふっとびそうなほどの不快感。
不快感はさらに極まる。
耳の裏側から首筋にかけて、ぬめっとした生暖かいものが伝った。
「いっ、ひぃっ」
そんな声が喉の奥からおもわず漏れる。こんな声出るなんて知らなかった。自分でも驚く悲鳴だった。
口の周りの筋肉がぴくぴく痙攣しているみたい。もうきっと、今のあたし、まともにしゃべることさえできない。
どこを見ていいのかわからないあたしの目が、あの怪人の顔を映す。
あたしと向き合うようにして起こされたそいつの口からは、だらりと気持ち悪い舌が垂れ下がってて、その先端からは気持ち悪い粘着質な液体が糸引くように伝い落ちている。
「ふ、ふふふふ。ひひひひひひ」
あたしを見て、そいつはさらに口を裂けるように激しく開いて、気色悪い笑い声をあげた。
なに?なんなの?こいつなんなの?
なにがしたいの?なに考えているの?
ぶるぶる揺れるこの目じゃ、こいつを睨むことさえできない。
あたしはこのままこいつに……
ヤバイ、身の危険が迫っているのに、意識が飛びそう。
うねうねとした感触が、何度も服の上から伝わってくる。
同じ動作を、何度も何度も繰り返しているみたいで、だけどあたしの体は絶対にそれに慣れない。
鶏の肌のように毛羽立った肌をぞわぞわさせながら、こわばった体はただただ時が終わるのを待っているだけ。
「はふ、はふふふ、ふぅぅっ」
必要以上にあたしのお腹が上下している。どうかしている。もう、まともに呼吸の仕方さえわかんなくなってる。
「はっはっはっはっ」
あたしの呼吸とは対照的に、テンション上がる男の呼吸はどんどんリズミカルになってる。
頭の中のどんどんという音が激しくなって、精神から肉体から、あたしは限界越える直前みたいに。
世界が遠い。
わずかにかく指が、あたしが求める救いは。
おばあちゃん、助けて。
「今日は、ここまでにしよう。楽しい事は少しずつやっていこう、ねぇリンネちゃん」
ハァハァとした荒い息が遠ざかっていく、男の体臭も薄らいでいく。
その存在が、あたしから遠ざかったのだと気づいたのは数分後。
少しずつ、体も正常なリズムをとり始めた頃。
「はぁ、はぁ、はぁ、んく」
やっといつもの呼吸に戻って、リセットするようにツバを飲み込む。
まだ体はあお向けたままだけど。
ゆっくりと視界も、正常になって。いつもの、景色。あたしだけの個室、あたしだけのその場所。
夢?…・・・あたし悪夢でも見ていたの?
ううん、夢じゃないと、あたしの体に残された不快なものが証明している。
首筋から胸元にかけて、なめくじがはった後のようなものがあたしを不快にさせる。
「気持ち、悪い」
わからない、なにが起きたんだろう?わからない。
あたしの夏の長期休暇は、こんな恐怖体験から始まった。
寝起きは最悪だった。
というか、ちゃんと寝たかどうかも怪しい。
あれから何度か、吐き気と同時に目が覚めた。
目覚めた瞬間、バッバッと周辺を確認する。小さくライトをつけて(消灯時間を過ぎたら照明つけたらダメなのよ、寮長に怒られる)室内を確認する。
なにもいない。そのことを確認してまたふとんに戻って、だけどやっぱり目が覚めて、の繰り返し。
だからろくに寝た気がしない。
やっぱり、夢だったのかな。
汗でべとついた体を拭いて、着替える。
今は夏の休暇中だから、朝も自分のペースでゆっくりできるわけだけど。
食堂を利用できる時間は決まっているから、それまでにごはんはすませないといけない。
ごはんを食べて、食堂を出るときに寮長とすれ違った。
もし、昨夜のことが夢じゃないなら、寮長も異変に気づいていたかもしれない。
あたしは寮長におそるおそる訊ねた。
昨夜、おかしなことはなかったか?部外者の侵入はなかったか?
寮長の返事は、あたしの不安を否定するものだった。
だいたい寮には部外者は入れないつくりになっている。
寮の門の前と、玄関前には学生パスや許可証などを通さないと通れないし。
だから泥棒も入ってはこれないし。それに物音がすれば、異常に気づくのが普通だろうし。
やっぱり、あたしの夢か、そうか夢だよね。
うん、あたしはそう言い聞かせて、自室に戻った。
さて、なにしよう。課題でもやろうか。……他にやることないし。
?あれ。
デスクにつく前に、妙な違和感を覚えた。
あたし、たしかに起きてから、ちゃんとふとんをたたんだのに、元に戻ってる。
おかしい、確かにちゃんとたたんだ記憶があるのに。
ベッドに行って、ふとんをたたもうとした。
「えっ?ちょっなにこれ?!」
ありえない状態に驚愕した。
だって、こんな状態、どんなにあたしが寝相悪くてもありえないもの。
その状態は、シーツがまるでハサミかなにかで切られたように、きれいに四角に切り取られていた。
つまりシーツの一部分がすっかりなくなっている。
「なんで、まさか……」
さらにデスクに戻ると、いつも使用しているシャープペンが無くなっていた。
いつも使うし、いつものペンたてに立ててあるはずのそれがやっぱりない。
机の下にも落ちてないし、狭い室内のすみにも転がって行ってはなかった。
おかしい、明らかに何者かの手によって切り取られたシーツに、持ち去られたペン。
そうとしか思えなくなった。それはあの悪夢を現実であったと思い知らされる。
ここにいるのが恐ろしくなった。
あたしはすぐに外着に着替えて、最低限の道具を持って、鍵を確実にかけたのを確かめて、何度も確かめて、寮を出た。
『おい、どこにいこうが無駄だぜ』
「!?な、なに?」
寮の外に出た瞬間それは聞こえた。一瞬だけ、空耳?
周囲に人のいる気配はないし、いや、耳で聞こえたというよりも、それはなんだか。
気のせい、気のせい。
少し不安があると、何気ない物音でも過敏に反応しちゃうからね。そうそう不安になりすぎているせい。
寮を出て、徒歩五分の場所にある図書館に来た。特に読みたいものがあるわけでもなく、でもなにか読んで気を紛らわせたくて、あたしは適当に本を読み漁った。
でもろくに本など読めていない。ページを一枚もめくれずに、周囲をきょろきょろと見回してしまう。
なにか、視線を感じるんだ。あの不気味な視線を。
すぐに閉館時間が来て、行くところのないあたしは憂鬱ながらも寮に戻る。
学生達は皆ほとんどがいなくなって、不気味なほど静まり返っているその場所へと。
部屋に戻る。鍵を解除する前に確認する、たしかに鍵はかかっている。だけど、気が抜けなくて、あたしは慎重にドアを開けた。
「いない、よね、当たり前か」
静かな室内。あたしが出かける前と変化なし、と思ったけど、やっぱり異変はあった。
デスクの上に置いた覚えのないものが。
それは、一通の手紙。あの差出人不明の白い封筒の、まだ封を切っていない手紙。
「な、なんで、どうして」
怖い、なんで手紙が置いてあるの?
恐る恐る、あたしは封を切った。
手紙は不気味な内容が綴られていた。あたしが感じたあの恐怖を現実のものだと思い知らされるものだった。
『リンネちゃん、昨夜は会えて嬉しかったよ。でも突然で驚かせてしまったみたいだね。
今度はしっかりと準備して会いに行くから、心しておいてね。
そうそう、リンネちゃんの愛用している品を少しながらもらったよ。
リンネちゃんの汗やにおいの染み付いたシーツ、何度も嗅いでいるんだ。
リンネちゃんの使っているペン、少し手垢にまみれていていいよね。何度も舌で味わっているよ。
おいしいね、リンネちゃんの垢も、汗ももっとかいだり舐めたりしてみたいよ。
ううん、それよりも今度はリンネちゃんのアレを味わってみたいな。
アレってわかるよね?そうアレだよ。
ボクがほじくってほじくりだして、リンネちゃんに見せてあげるね。
ああ、楽しみだなぁ。
ああ、早くしたい、いきたいなぁ。
だけど、リンネちゃんいつも鍵開けてくれてないよね、この間は開けてくれていたのに。
それにあのおばさんがウザイよね。なんとか上手いこと始末できないかなー。
そうすれば、ボクとリンネちゃん二人きりになれるのにね。
うん、なんとかしよう。リンネちゃんも手伝ってくれるよね』
ガン!
よろけてあたしは腰をデスクの角にぶつけてしまった。
な、なにこれ、理解できない。
もうあたしはこの手紙に以前みたいな思いを抱けなくなっていた。
ううん、目が覚めたというべきか。
よろけた体勢を立て直して、打った腰をさすりながら、あたしはこの不気味な手紙をビリビリに破って捨てた。
その文字一文字でも目に映ることが恐ろしくて、呪いを封じる儀式でもあるように、あたしはとことんその紙を細かい繊維になるまで破いて破いて、捨てた。
『おいおい、無駄だ無駄だつってんだろーが。来るぜあいつはよ。
執念深く、追いかけてくるぜ』
びくぅっ
背筋に縦に走った悪寒。またへんな声が聞こえた。
なに?なに?なんなの?
「だれか、いるの?」
訊ねながらもあたしは気づいている。それは人間の、生ある存在の声とは違う。別の意識のものだって。
だけど認めたくないじゃない、怖いもの。
当然返答はない。だから、気のせいだって思うしかない、だけど……
気になる、不気味すぎる。
あの変質者の男もだけど、その謎の声の存在も、わけわからなさすぎて、不気味すぎる。
その夜、あたしはまた悪夢を見た。
それは下のほうからすごい物音がして、気がついたらあたしはそこにいて、そこは一階のロビーのとこで、あの変質者がハァハァ言いながら立っていた。肌や衣服はびっしょりと湿っていて、その湿りは汗だけじゃなくて、別の液体も含まれていることに気づかされる。
黒く滲んだ模様は、その下に横たわる寮長の血液かもしれない。
返り血、おそらくは。男のハァハァという荒い息は疲労よりも、興奮でといったほうが正しいのかもしれない。
暗闇の中、浮かび上がるギョロっと向いた目はかなり興奮状態のよう、その目があたしを見る。
「な……ろ、した…の?」
ガチる歯でなんとかあたしは言う。認めたくないそれを、確かめるように。
男は不気味に笑う。
「そうだよ。リンネちゃんも一緒にやったじゃない」
イミフメイなことを口走る。
「なに、勝手なこと言って……の、人、殺しっ」
ガクガクなる膝小僧を抑えて、あたしは非難の言葉を向ける。
男はそんなあたしに不気味なほど口を広げて、にまあと笑いながらわけわからないことを言う。
「おもしろいなぁリンネちゃんは。さっきと言っていることが違うよ。
誘ったのはリンネちゃんなのにね。こいつ殺しておこうぜって。嬉しそうにそう言っていたのに。
今度は脅えた仔猫みたいな顔して、ううん、そんなギャップもたまらなく萌えるからいいんだよ。
ボクは罵られるのも虐めるのも大好きだからね。得なタイプだよね。
でも、今のリンネちゃんは、すごくいじめたいモードかなー?
ふふふ、ふふふふふ」
「ひっっ、ひぃぃぃ」
男は開いた口から赤い舌を出して上下左右に振り動かす。それは気持ち悪い未確認生物みたいに見えて、その生物からはどろりとした粘液が滴り落ちる。
真っ黒い爪先の指があたしへと伸びてきた。
いや!いや、いやだーーーー!
あたしは上の階へと走って逃げた。すぐに自室に戻って、鍵を閉める。
ドンドンドン、近づいてくる足音。それはすぐにあたしの部屋の前まで来て、戸はドンドンとすさまじい音を立てられ始める。
「リンネちゃん、どうして逃げるのかな?そうか、そういうプレイが好きなんだよね。
うん、ボクもおいかけっこは大好きだよ。でも、フン!」
すさまじい音をあげて、扉が破壊された。
鍵なんて、意味なかったんだ。こいつは鍵なんてかけても意味ないって知ってて、わざとあんなこと言って。
「ほぉら、無駄だよね。どうする?リンネちゃん。もう逃げられないよぅ。
このままボクに、大人しく虐められたいのかなー?」
男はくねくねと動かす指を、レロレロと気持ち悪いほど上下させている舌で何度も何度も舐めている。おかげでその指は唾液でベトベトになっている。
あんな手で、あたしに触るつもりなの?
いや、いやだ。冗談じゃない。
じわり、じわりと男が近づいてくる。わざとらしいほどゆっくりに。あたしが恐怖で脅えているのを楽しんでいるみたいに。
がくっ。
足に当ったのはベッドだった。
ベッドの先にはカーテンが。後ずさりはもうできない。もう目の前まで迫る男。
どさっ。あたしはベッドの上にしりもちをつくように倒れた。
背後には揺れるカーテンと、そして今まさにあたしに襲い掛かる変質者が目前にいた。
「ふふふふ、観念だね〜リンネちゃん。
いいよ、いいんだよ。シーツがぐしょぐしょになるまでたっぷり虐めてあげるからね〜。
ううん、もう部屋中、リンネちゃんのモノでいっぱい汚してあげるからねーーー!」
もう、だめだ。お終いだ。あたしはもう……
その時、またあの声が聞こえた。
『やるのか?黙ってやられんのか?どっちだ?』
そのどっちもごめんだ。あたしは心の中でそう叫んだ。
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