馬 かける
第八話 ついに敗北?、二つのショック

遡る事十数年前。現在の中央東区北東に位置する閑静な町。そこにあった児童養護施設その名も【天使園】には十数人の子供達が当時身を置いていた。
ワタルという少女もその施設で世話になっていた。同施設で兄弟のように仲良くしていたツバサという少年もいた。初老の園長を中心に、施設は家族のような穏やかな関係を保っていた。
当時はここの地域は中央東ではなく、天使(あまつか)区という小さな区であった。現在は吸収合併という形で天使区の名前はなくなってしまったが。
施設の後援者でもあった地主のテンカワ・コウロウの働きにより、天使園の子供達の生活は守られていた。が園はある件がきっかけで閉園せざるをえなくなってしまう。園内の子供達が次々と謎の奇病にかかってしまったのだ。当初は食中毒や感染症を疑われたが、どうも違っていた。病にかかる子供達には個々によって時間差があり、数年後に発症した子もいたのだ。未知の病でまだ名前のなかったその病には、皮肉にもその施設…つまり施設の名の由来にもなっている天使区からとられ、天使病【てんしびょう】と名づけられた。
天使病とは…、急死にかかわる病ではない。また感染に関して、成人には感染はしない。が子供に感染する確証もない。さらに青原市どころか全国でもまったく例のない病だった。症状が出たのは、天使園の子供達数名。ただ中には完治したという情報もある。がこれもちゃんとした記録は残されていない。
天使病の症状は、少しずつゆっくりと進行していく。つま先から壊死が始まるのだ。壊死をとめる術はなく、切断という道を選ぶ。
閉園後、子供達の面倒を見たのがテンカワ夫妻だった。子供達はそれぞれ里親の元に。ワタルとツバサはテンカワ夫妻の養子として引き取られた。施設で兄妹のように育った二人は、テンカワ夫妻の元で、兄妹として育つことになる。幸いにもツバサとワタルには天使病の症状はこのとき現れなかった。
テンカワ夫妻は子宝に恵まれる事がなかったため、養子の二人だけが彼らの子供だった。資産家として財産と地位には恵まれたが、子宝には縁がなかった。そのこともあり、ツバサとワタルを実の子のように愛情を注いで二人を育てた。親の愛を知らなかったツバサとワタルにとっても、テンカワ夫妻は実の親のように思える存在へとなっていった。が、彼ら家族の幸せは突如終わりを迎える。
悲惨な交通事故。テンカワ夫妻の車に暴走車が正面衝突し、激しいクラッシュ事故で車体は大破。夫妻は即死だった。また後部座席に乗っていた長男のツバサも事故の犠牲者となった。唯一、車に乗っていなかったワタルだけが幸いにも生き残った。いや、一瞬にして初めての家族を一気に失ったのだ、これ以上の不幸などあるまい。この事故を機に、ワタルの周囲も一変する。天涯孤独となった少女ワタルの後継人となったのが、オオガワラ・ギゾウという名の男だった。オオガワラ・ギゾウはかつて国政に身を置いていたオオガワラ・チョウゾウの息子である。チョウゾウは国政のトップの地位にまで上り詰めたが汚職をきっかけに転落。代々国政議員に名を連ねてきたオオガワラ家の名はチョウゾウで途切れたのだ。が、政の世界からオオガワラの名は消えてはいなかった。それがこの男オオガワラ・ギゾウだ。青原市の中央東区の区長に就任し、彼が区長となってから中央東区は右肩のぼりに成長を続けた。区の発展に力を入れ、天使区との吸収合併も彼の成し遂げた事だ。
野心の塊のようなこの男の力が、中央東区を大きく、強くさせた。当然レースにおいても、彼は豪腕を奮った。鋼鉄の義足が特徴である彼の馬は常にチャンピオンの座に着いた。現チャンピオンのテンカワ・ワタルもその一人だ。
施設で育ち、資産家の養子となり、そして中央東区の馬となった。テンカワ・ワタル…彼女の十六年の人生はなかなかに波乱万丈な人生かもしれない。


「調子、だいじょうぶ?」
椅子に腰掛け一息ついていたテンカワに、そう声をかけてきた相手は彼だ…アマツカ。カツカツと足音は近づいて、テンカワのすぐ傍でしゃがみこむ。
「うん。…ちょっと、最近違和感が…伝えてはいるんだけど」
不安を感じさせるニュアンスでテンカワがつぶやく。冷たい鋼鉄の足をさする。接触部である膝の辺りに触れながら。
「そっか。…ボクからも伝えてみるよ」
すくっと立ち上がりながら、アマツカはテンカワへと優しく微笑む。彼の笑顔を見るたび、テンカワは胸の奥がぎゅうと締め付けられる気持ちになる。心が痛む。
「待ってアマツカ、いかないで、あの人のところには…」
もう傷つかないでと、心で叫ぶ。その想いはとっくに彼に届いているはずなのに、彼はアマツカはテンカワの想いをきいてはくれない。
「だいじょうぶだから」
いつもそう言って。アマツカは行ってしまう。その行き先で彼がどんな目に合うかわかっているのに。いつも彼は笑顔で向かうのだ。
自らが傷つく道へと。

ドアをノックする前に、アマツカは息を飲み込む。何度対面しても慣れない。この緊張感、何度対話しても通じ合える気がしない、その相手。だけど、自分はその人から離れる事はできない。己に科した枷。
「入れ」
低く響く中年男性の声。「失礼します」とアマツカはドアを押し開け入る。
恰幅のいい背広姿の男。白いメッシュの入った髪をぎっちりとオールバックでそろえている。一重のやや腫れぼったい瞼の下の眼光はぎらつくように鋭い。
オオガワラ・ギゾウ、中央東区の区長である。
アマツカとギゾウの関係は、一言では語りきれない、そういう関係だ。二人の間に、情といったものは感じられない。
アマツカはただ黙って、ギゾウの言葉を待つ。
「若草の馬をつぶせ」
冷酷なギゾウの指令に、アマツカはぴくりと体を震わせる。若草の馬…つまりはカケリの顔が浮かぶ。
強張るアマツカを見ながら、くくくとギゾウはのどを鳴らして笑う。物騒な想像をするなと。
「なにも物理的にという話ではないぞ。すでに顔見知りになっとるのだろう? 種はすでにお前自身が蒔いたはずだ」
にやり。ギゾウがいやらしく口元を歪める。その指令にアマツカは少しほっとした。できることなら傷つけたくは無いから、彼女を…カケリを。



「アマツカ君…」
部屋の窓から外を眺める。カクバヤシ別邸の庭園を見下ろす。あたしが探すのはもちろん彼だ…アマツカ君。
あの時、あの当たりで見たんだよね。マケンドーを探しに行く時に。アマツカ君、どうしてあそこにいたんだろう? ここで働いている人ってわけでもなさげだし、…マケンドーの知り合い? まさかね、そんな…。
「ゴラァアア! 窓全開開けっぱにすんなつったろーがーーゴミが入るっつーんじゃこんちきしょーが!」
背後から響く怒声はヒヨコさん。
この距離なのに耳がキンキンになる。慌ててあたしは窓を閉めた。未練がましく視線は窓の外に向かっちゃうけど。
こっそりと邸内を探して歩く。アマツカ君、どこかにいないかな。
通路をこそこそと歩いていると、聞き覚えのある声につい足を止める。
「兄上がどうなろうがどうでもいいけどさ、おれや周辺まで巻き込むなってことだよ!」
ショーリン君の声だ。言い争っている相手は、つまりマケンドーだ。一体なんの話してるんだろ。つい気になってそそそと聞き耳を立ててしまう。
「お前も分別わかっておかしくない年だろう。自分の交友関係にはもう少し慎重になるべきだな。それが弱みに繋がる事になる」
「おれの交友関係にまで口出ししてほしくないな。…ああそっか、自分がそうなんだ? だから兄上はカケリちゃんに手が出せないってことだよね?」
は? どういうこと? ショーリン君なんの話してるの?
急に会話の中にあたしの名前が登場して、どきってなる。
「この際だはっきりと教えてよ。兄上カケリちゃんのことマジで好きなの?」
は? はあーー?!
「お前はすぐにそういうことに結び付けたがるな。俺は公人だ、そういった感情で動きはしない」
「職業なんて関係ないだろ? 人間ならあって当然の感情なんだから。必死で誤魔化しているだけなんだろ? 兄上は怖いんだ、完璧じゃないから。道を踏み外すことが、カケリちゃんにふられることが! 隠し通せば負け犬にならないとでも思ってるんじゃないのか?」
「ショーリン、お前はやはり俺をわかってはいないな。失敗を恐れているのはお前のほうだろ」
「なっなんだと?!」
カァッと血が上ったショーリン君がマケンドーに掴みかかって、やばい今にも殴り合いが始まりそうな空気に、あたしは飛びだしそうになったけど、カツさんが駆け寄ってくるのが見えて飛び出さずにすんだ。ショーリン君はマケンドーから離れて、憎々しげに睨み付けてから出て行った。ほんと、仲悪い兄弟だなあの二人。
「マケンドー様…」
「気にするなカツ、いつものことだ。アイツは俺と兄上を比べているようで、自分と兄上を比べてしまってるんだろう、意識していないところでな。今回の件アイツも無用心すぎた。反省してもらわねばな」
「マケンドー様、例の件、カケリ様にお伝えしたほうがよろしいのでは」
?なんだろ、例の件って。

夕食後にマケンドーに呼ばれた。
「カケリ話がある。食事がすんだら俺の部屋に来い」
な、なんだろ、話って。まさか…まさか?!
「うぐっっ、げほげほ」
うっかり芋の煮物を飲み込んでしまってむせ返ってしまった。ヒヨコさんが睨んできたけど不可抗力だから! だってマケンドーが話があるなんて言ってくるんだもの。なんだよ話って、まさか。
さっきのショーリン君との話をリピートしてしまう。
話ってまさか?
『兄上カケリちゃんのことマジで好きなの?』
「ないないないない!」
マケンドーの部屋の扉の前で、あたしは否定するように首を振る。
いやだって、ありえないし、マケンドーがあたしを好きになるとかそんな理由が見当たらないし。そんなわけないし。
カツさんも意味深な事言ってたし、いやでもだからって、そうだって決め付けるのは短絡すぎるし、第一、理由が思い当たらない。だから、絶対ない!
「いるのか?」
「いっ?!」
扉の向こうからマケンドーに呼びかけられて、あたしは変な声出しちゃったじゃないか。あんたはエスパーか?
さきほどまでの考えをリセットするようにあたしは頭をぺちぺちと叩いて、部屋へと入った。
暖色系の電灯が妙な雰囲気で、余計に緊張するじゃないか。
「な、なに? 話って?」
平静をよそおいながらもきっと引きつっているあたしとは対照的にマケンドーは落ち着いてて、なんかそれが妙に恥ずかしい、じゃなくて腹立たしい。
「とりあえず座れ」
マケンドーの真向かいにある椅子に座れと指示された。そのままあたしは座るけど、あ、なにこれこの雰囲気、先生との個人面談みたいだ。
「カケリ」
真正面に座るマケンドーの真剣な眼差し、瞳の奥までのぞかれそうで、こういうの、苦手だ。告白される瞬間ってこんな感じなのかな? だめだ、すごい音がしてる。すごいどきどきしてる。どこで息していいの? ツバ飲み込んでいいの? 瞬きしていいの? そんな普段意識しないことがすごい気になってる。時計のカチカチ音だけがやけに響いて、それが心臓の音とリンクする。異次元に飛ばされるみたい。
「な、なに?!」
飲まれちゃだめだ! 理性がシールドはらなきゃって、気持ちを強くしなきゃと声をはる。
「お前に確かめたいことがある」
静かな部屋の中マケンドーの声が響いて、時計の秒針の音と、あたしの体の中の音だけが、きっとそれだけはあたしにしか聞こえていないはずだけど、妙にうるさくて、どうにかなりそうだ。
確かめたい事って?まさか、まさかあたしの気持ち?
真剣な目で見つめられて、あたしは平静をよそおいながら、中ではどきどき鳴りっぱなしで。どうかしてるよ、マケンドーは嫌な奴で、そんなマケンドーにどきどきするなんて、あたしはドMじゃない。
「はっ」
?!
急にマケンドーが息を飲み込んで、立ち上がったかと思うと、あたしの両肩を掴んできた。
「えっちょっまっっ」
待ってが言えなくて、あたしは完全に体が固まる。ウソ、キスされる?!
「カケリ動くな」
う、動きたくても動けない。やだどうしよう、こんな、こんな展開聞いてないし。あたしが好きなのはアマツカ君で、初めての告白もキスもアマツカ君がいい!
「何者だ? 出て来い」
「へ? え?」
マケンドーの声はあたしでない別の誰かに向けて発せられたものだった。固く閉じていた目を開けるとマケンドーの顔は近くにあってびくってなったけど、マケンドーの目はあたしじゃなくて別の方向に向けられていた。
部屋の隅、本棚の横のデッドスペースで影が揺れた。
だ、だれかいる?!
マケンドーがあたしの肩を押して、あたしの前に立つ。謎の影のほうを睨みながら。
「な、なに?!」
影は動いて、ドアのほうへと向かう。灯りの下でその顔がハッキリと見えた。あたしは我が目を疑う。
「アマツカ君?」
確実に目があった。アマツカ君もあたしを見ていた。どういうこと? 頭が爆発しそう。
アマツカ君はなにも言わないで、ドアから出ようとした。
「待て」
マケンドーがアマツカ君のほうへと走る。
「待って!」
あたしは反射的にマケンドーの体を掴んで、動きを止める。
そのすきに、アマツカ君は素早くドアを開け、飛び出す。
「おい、カケリ離せ、アイツは」
「あたしが追いかける!」
靴を脱ぎ捨て、あたしは部屋を飛び出した。アマツカ君を追いかける。なにも考えないで、ただあの背中を追いかけて、捕まえる。
「アマツカ君!」
裏戸の直前で、あたしはアマツカ君の肩を掴んだ。振り返るアマツカ君。間違いない、この顔はアマツカ君だ。また会えた。
「カケリ、ごめん…」
「へ?」
かすかにその顔は切なく歪んだように見えて、あたしの手を振り解いたアマツカ君の手が、あたしの体をドンと押した。倒れる。それがわかっているのに、それを何度も考える余裕もあるのに、あたしの体はまた固まって、そのまま弾かれるままに後ろに倒れこむ。走り去るアマツカ君の背中を止める事もできないまま。
「カケリーー!」
後ろからマケンドーの声が近づいてきているのを感じながら、あたしは気を失った。


次にあたしが見た景色は、自室の天井で…マケンドーの顔だった。
「カケリ! 気づいたか」
「マケンドー? あたし…」
あれ? そういえばなんでここに?
「お体も大事ないようでよかったです」
すぐ傍にカツさんもいた。
あ…そうか、あたし気失ったのか。あ、なんか体痛いかも。
「俺の不注意だ。傍にいながら、こんなことに」
すまないと言うマケンドーの言葉を、あたしはかき消そうとする。否定したいから。違う、彼のせいじゃない、アマツカ君はなにもしてないと。
「なんでもない、あたしが走ってこけただけだから」
「カケリ、アイツがだれか知っているのか? アイツは」
「アマツカ君は」
「中央東の犬だ」
「え? なに…?」
マケンドーの言った意味がわからず、あたしの思考は停止する。なに? どういうこと? マケンドーはアマツカ君のこと知ってるの?
「アマツカと名乗っているようですね」
「え?」
カツさんも知ってるの?
「カケリ、お前アイツと以前にも会った事があるのだな?」
う、ついにマケンドーにも知られてしまった。アマツカ君とのこと。
「アマツカ君は悪い人じゃない」
「先にも言ったろう、アイツは中央東の犬だ。おそらく、オオガワラの差し金だ」
言ってる意味がわからない。
「アマツカ君は犬じゃない! アマツカ君は天使なんだ!」
「カケリ? お前なにを。…少し落ち着け!」
「うるさい! マケンドーのバカー!」
「く、動揺するな! お前は若草の馬だ」
その前に一人の女の子だ!
「だがこれでハッキリしたな。オオガワラは以前からあのアマツカという小僧をけしかけてきていた。
カケリ、もう二度とあのアマツカには近づくな、いいな」
頭の中ぐるぐるする。だけど、マケンドーのそれにあたしは応えることはできない。やっぱりあたしはアマツカ君を信じたい。みんながダメだと言っても、それは譲れない想いなんだ。


アマツカは中央東のギゾウ邸にいた。ギゾウの部屋で報告をすませて、テンカワの様子を見にいく。
テンカワはトレーニングを終えた後で、義足のメンテナンスを済ませ結果待ちをしている最中だった。
「アマツカ」
入り口付近に立つアマツカに気づいたテンカワが、彼の名を呼ぶ。
「今日のトレーニングは終ったみたいだね、お疲れ様。明日はレースだし、ゆっくり休めないとね」
「明日の相手は…」
「うん、聞いてる。テンカワも聞いてるんでしょ?」
こくりとテンカワが頷く。
「大丈夫だよ。テンカワは負けない。…だれが相手でも」
「それは…」
裏でアマツカが動いているから。ギゾウの命を受けて、良心に反することをさせられている。けして負けるわけにはいかないギゾウは、完璧な勝利を得るために、裏でいろいろな工作をしている。直接聞いているわけではないが、テンカワは知っていた。心優しいアマツカが、そのことで傷ついている。表には現さないし、自分にもけしてその弱さをさらさないけれど。
勝つことを使命として、負けるわけにはいかないチャンピオンのテンカワ。だけど彼女にとって勝利は喜びではなく、心に重いものが積み重なる。勝つたびに、見えないところで彼はアマツカは手を汚し、心を痛めている。
なにもできない、ただ走ることしか、勝つ事しかできない。自分の非力さがつらかった。



レース開始の一時間前、マケンドーは市庁に呼ばれていた。もちろん彼を呼んだのは市長コヒガシだ。相変わらず派手な出で立ちの胡散臭い風貌でマケンドーを出迎える。
元々予定になかったことで、例の市長のことだ、なにか企みがあってのことだろうと予想はついていたのだが。同席していた相手に冷静なマケンドーも思わず顔をしかめる。
「オオガワラ区長」
ふんと実際に鼻で笑ってはいないが、そんな音が聞こえてきそうな表情でマケンドーへと振り返る。オオガワラ・ギゾウも同席していた。先日の事件にギゾウが関わっていたと知っているマケンドーとしては、気分はよくない。がそんな感情をここで露わにするほどマケンドーも幼くない。すぐに気持ちを切り替え市長へと向き直る。
「市長本日は何用でしょうか?」
ずずいと身を乗り出しながら市長は楽しそうに笑いながら答える。こういう時は間違いなく、なにかを企んでいる時だ。それも市長にとって楽しいことだ。
「いきなりで悪いけど、今日のレースは一部内容を変更させてもらっていてね。カクバヤシ区長、本日の若草の対戦相手はオオガワラ区長の中央東に変更になったよ」
「?!な…」
にやりと不気味に微笑むギゾウに、マケンドーは「(そういうことか)」と心の中で納得する。
ギゾウが市長に提案したのだろう。若草との対戦を。チャンピオン中央東とはいずれ当たる予定だったが、それが早まったということだ。
「若草の好成績から考えて、時期尚早でもないと思うんだがね。どうだろうか?」
と問いかける市長だが、眼鏡の奥の瞳はノーとは言わさせない威圧を放つ。マケンドーも断る気はなかった。



今日はレースだ。会場について早々マケンドーは用事だって抜けたんだけど。レースまであと一時間もないし、大丈夫なんだろうか? いやマケンドーのことなんて心配している場合じゃないんだけど。
ずっと考えてしまうのはアマツカ君のこと…。
どうしてアマツカ君はあんなとこにいたんだろ? どうしてあの時「ごめん」ってあたしのこと突き飛ばしたんだろ? なにか訳があってのことに違いないけど、アマツカ君、君は一体何者なの?
『アイツは中央東の犬だ』
マケンドーが言ってたことをあたしは否定したい。だってもしそうなら、アマツカ君はあたしの…。
頭の中でそれを否定しようとかき消す。その単語を意味を、かき消したい。
「カケリ様、どうかお気になさらないでください」
カツさんの優しい声、あたしのこと気遣ってくれてる。違うよ、あたしは気にして無いから、心配しないでカツさん。
「大丈夫ですよ、なにも気にしている事なんてありませんから、じゃっ行ってきます」
できるだけ元気に見せながら、あたしはカツさんに別れを告げて、走者の控え室へと向かう。
怪我もなかったし、トレーニングもしっかりしたし、今日だって負けるつもりないし。なにも…不安なんてない。
「アマツカ」
!?
通路で響いたその声はあたしじゃない女の子の声、聞き間違いじゃなければ「アマツカ」って言ってた。どきってなったけど、まさかあのアマツカ君のわけ。他のアマツカさんかもしれないし、なんて思いながら前を見た。
「テンカワ、大丈夫だよ…、テンカワは負けない」
聞き覚えのある声、あの横顔、アマツカ君だ。そして彼と向かい合うのは、テンカワさん!?
テンカワさんと目があった。あたしはなにも発せられないまま立ち尽くしている。どうしよう、どういうことだろう、どうしてアマツカ君とテンカワさんが一緒にいるんだろう? 二人は知り合い?
今度は、アマツカ君と目があった。少しだけこちらを向いて、確実に目があった。だけど、あたしとは逆でアマツカ君の顔に変化はない。あたしに気づいていない? そんなことないよね? 何度か会ったし、あたしのこと知りたいって言ったし、名前だって知ってるし。この距離で、ド近眼じゃない限り気づかないなんてこと、ない。
すぐに目はそらされた。あたしのことなんていなかったみたいに、テンカワさんへと向き合うアマツカ君。
「負けるはず、ないから」
アマツカ君のその言葉はテンカワさんに向かって発せられたものなのに、あたしの心にずんと重くのしかかって、つぶされそうかもしれない。
そのまま、あたしのことなんて目に入ってないみたいに、アマツカ君は奥のほうへと歩いていった。
否定していたのに、決定的になった。アマツカ君は中央東の人間で、テンカワさんの側で…、つまりは、あたしの敵…。


「――リ! おいカケリ!」
「うっおっ」
視界が体が揺さぶられた。マケンドーだった。あたし、ぼーっとしてた。
「なに上の空になっている。しっかりしろ。今日のメニュー急遽変更だ。相手は中央東…チャンピオンテンカワだ」
「え? え?」
「オオガワラが仕組んできた事だが、気にすることはない、お前はただ走ることに集中しろ。俺がすべての障害を排除してやる」
「ああうんわかってる」
あたしは空返事しながら、なんかもう適当に答えていた。なんかもうなにも考えていない気がする。
考えたくない。


ゲート前。馬として、あたしと一緒にテンカワさんが並ぶ。もうすぐレースが始まる。どことなく、遠い世界みたいに感じながら、ただ待っている。
「あなたが…カケリ…」
「え?」
テンカワさんに名前を呼ばれて、あたしは一瞬驚いたけど。ああそうか、別に知っててもおかしくないか。あたしは若草の馬だし、あたしの名前くらい知ってても普通だよね。そっかだからアマツカ君もあたしのこと知って…、う、考えたくないのに。考えるな!
「ほんとうならもっとあとにあなたと当たるはずだった…」
ああそっか、急遽決まった組み合わせなんだよね。本来ならこんなに早くチャンピオンとやれるはずなかったろう、あたしもマケンドーも新人だし。
なにか言いたげな顔をしているみたいだけど、あたしは彼女と話す事がちょっと怖いと思っている。アマツカ君のこと聞くのが、知るのが怖いってことなんだろうけど。早くレース始まって終わればいいのに。
「悪く思わないで。私も…負けるわけにはいかないから」
あまり抑揚のないしゃべり方で静かな口調、だけど奥底で強い感情を感じるような。それがチャンピオンテンカワ・ワタルなのかもしれない。
『皆様長らくお待たせしました! さて本日の第一レースは、ここでくるか!? 不動のチャンピオン中央東区鋼鉄の天使の登場だ! それに挑むは勢いに乗る若草の馬。若草は勢いに乗りまくってチャンピオンを超えられるのか? それとも鋼鉄の天使の羽先にすら触れられぬのか?
目の離せない熱い展開が期待されます! まもなくスタートです』
アナウンスが流れて、いよいよカウントダウンが始まる。
ただ前を見据えて、ゲートが開く瞬間を待つ。


ゲートが開き、レースが始まり、あたしは素足で駆ける。
すぐに前方に背中が現れる。テンカワさんの背中だ。速い、速すぎる。光を反射する鋼鉄の足が眩しくて、まるで彼女そのものが光っているようにも錯覚する。
だめだ、かないっこない。本当の天使みたいだ。
天使だと思うと、あたしはすぐにアマツカ君を連想してしまって。彼女の背中を支えているアマツカ君の幻が見えてきた。
だめ、やっぱり、敵うはずない。
がくん、視界がぶれる。やばい、足が縺れて、スピードがゆるむ。
どんどん距離は離されて、あたしのスピードが追いつかないのに、目の前のトラップはどんどん解除されて、道は開けていくのに、目に見えない障害に阻まれている、あたしの心は。
『ゴーール! 勝者は揺ぎ無いチャンピオン中央東だーー!』
負けた。ゆるゆると足が止まる。ファンファーレはあたしじゃなくて、テンカワさんのために鳴っていた。勝者のための歓声とともに。



控え室へと続く通路で、マケンドーが待ち構えていた。強張った表情に腕組み、間違いなく説教フラグだ。
気が重い、けど、アマツカ君のこと考えなくてすむならいっそマケンドーの説教でもいいよ。
「なんだ、あの走りは」
言うと思ったマケンドーの第一声。
「勝てるわけないよ。本気出しても絶対敵わなかった」
余計な事言ったけど、どうせマケンドーにはばれていたんだ。今更誤魔化したって無意味だ。あたしは完全にあきらめて走っていた。アマツカ君がついているテンカワさんには勝てるはずないって、最初からあきらめていた。
マケンドーの足が動く、あたしのほうへと近づいて。強張った表情は崩れない。すぐそばまで来て、あたしの体も強張る。本能的にヤバイんだなって察する。ぶたれるかもしれないなと、緊張して強張る。
マケンドーはそういうの許せない性質だと思うから。説教かまして、木刀で叩いて、まあそれがマケンドーだから。
「俺を目覚めさせたのはお前だ、カケリ」
? なにを言ってるんだ? マケンドーの言っている意味を考えかけるけど、さっぱり不明で。予想していた言葉が来なくて、少し拍子抜けするあたしに、マケンドーの行動がさらにあたしの思考をぶっ飛ばす。
マケンドーのスーツのにおいが鼻元に。顔面にかすかな圧迫感。数秒して抱きしめられている事に気づく。
え、えええーーー?! 頭が爆発しそうで、混乱する。
顔が熱くなるまま、あたしの体はますます強張っていった。


BACK  TOP  NEXT  拍手を送る