「目覚める頃ね…、これでやっと……」
そうつぶやいて、男は近づく。白いベッドの上で、目を閉じ横たわる女性に。
彼女は小さく寝息をたてている。リズムよく上下する胸。遠くから見れば人形のようだが、近づけばわかる、彼女は生きていると。
彼女が眠るベッドまで近づいた男は膝を曲げ、その顔を覗き込む。
指を伸ばし、彼女の頬に触れそうな距離まで近付ける。
が、そのギリギリの距離で動きは止まる。
じかに触れず、表面の空気層だけをそっと、指の腹でなでる。
大事なものには、怖すぎて触れられない、そんな風にも見受けられるが……
彼の心情は、きっと彼にしかわからない。
彼女のまぶたが、ぶぶる、と小さく震えた。
男の口元に笑みが浮かぶ。
「あなたはすべてを忘れて、私に出会う。
私だけを見て、私だけを想うために、生まれ変わったの」
それは彼女に対しての言葉なのか、男の独り言なのかわからないが。
ゆっくりと彼女の瞼は開き、そして彼女の瞳は男だけを映していた。



ここはどこ?あたしはだれ?
いや、それはわかる、わかるんだ。
あたしは桃山リンネ。十八歳の女の子。鬼門家の長男でCエリアの領主でセクシー&ビューティホーのステキな人、ビケさんにゾッコンラブ真っ只中。
で、ここはBエリア。すべてが自由でハチャメチャな街。
おばあちゃんが住んでいた街で、なぜかここであたしは彷徨っていた。
そして自称愛のテロリストでおばあちゃん「タカネ」の恋人を名乗る男テンと出会い、受難の始まりとなった場所。それから記憶喪失になったテンがカフェテンを経営していた場所でもあり、最近はキョウやキンに狙われたりして大変な目に合ったし。
いや、だからそれよりも、もっと大きなことがあったんだって!
あたしのピンチに突然現れた、あたしの大好きな人ビケさん。
そのビケさんの口からは、あたしの過去に関するとんでもない事実。
あたしは、二年前にこのBエリアで、ビケさんと出会っていたって!?
なんでいきなりビケさんはそんなことを……?!
ううん、なんであたしは、そんな大事なことを、大切なビケさんの記憶を失くしてしまったんだ?!
わからない、どうしよう、ああもうわけわかんない!
ごちゃごちゃグラグラなあたしの中にあのバイオレンスなあいつが再び現れたのだ。
そう、諸悪の根源【桃太郎】がね。


『そのまま進め、で、次の十字路を右だ』
その桃太郎のナビゲートであたしはBエリアの街を進んでいる。
ムカツク、この悪党野郎が!
たとえ生まれ変わりだということが事実だとしても、あたしはこの桃太郎の存在を認めることはできっこない。
『しつけーなぁ、てめぇもよぉ。俺様のほうこそ認めたくねぇぇんだよ。てめぇみてぇな糞女な。
ち、糞みてーに、おせーなぁ。とっとと行きやがれ』
ああ、もう!こうして考えていることさえ知られちゃうし、ほんとムカツクんですけど。
でも、記憶を取り戻せない今、こいつを頼るしかないわけで。
なんとかして、あたしは捨てた記憶を取り戻したい。
ビケさんの記憶を、ビケさんへの想いを。
『おお、ここだ。おい、ここだぜ』
「え?ここって?」
桃太郎に案内された場所は、なにげないBエリアの通りの一角。
一体、ここがなんだっていうの?
特に特徴もなにもない、Bエリアの街の景色。
きょろきょろとするあたしに、桃太郎が語りかける。
『ちっ、たく、しゃーねぇな。俺様が教えてやるよ。リンネ、なんでてめぇがこのBエリアにきたのか、なぁ』

時は遡る。二年と数ヶ月前……十五歳のあたしがいた時へと。



いつもの見慣れた景色、いつもの店舗で、夏の長期休暇に備えて文具なんかを受けとりに行く。
店内入ってすぐの自動機に学生パスを通して、認証に数秒間、受け取り口に用具一式が出てくる。
この街Aエリアは学園都市とも呼ばれて、住人のほとんどが学生だったりする。
なのでこういった文具やら本やらを取扱った店舗が多い。
Aエリアの学生は必要以上の金銭を所持してはならない。
そのかわり、学生ごとに発行される、個人証明でもある学生パスを使って、勉強で使用する文具や書籍、生活に必要な最低限の日用品を支給してもらえる。
文具店通りを歩いて十数分、あたしはあたしの住処である学生寮についた。
門からはぱたぱたと大きな荷物を抱えて出て行く他の寮生たち。
「あっ、いってらっしゃい」
慌てて声をかける。でも返ってくる返事はなくあたしに振り返ることなくそのこたちは寮をあとにした。
言うだけむだとはわかっているんだけどね。
またしぱらくして、続々と寮を出て行く学生たち。みんなどこへ向かうんだろう。
Aエリアの実家に帰る人もいれば、Cエリアに旅行に行く人もいるらしい。
明日からいよいよ夏の長期休暇に入る。七月後半から九月の頭まで、学校の授業がまるまる休みになってしまうのだ。もちろん学校が休みでも、学業が休みになるわけではなくて、しっかり課題は出されるわけだけど。
夏の長期休暇。
あたしの夏の長期休暇は、いつも寮で、もくもくと課題をやる日々だった。
みんな休暇中は寮を出るから、ほんとに静かで、すっごく勉強がはかどる。
もくもくもくもく、ひたすらに机に向かう。
だけど、いつも、最初の十日間ですべて終わってしまう。だからもっかい消してまた最初からやったりとか、ムダなことしてるなーと思いつつ。
でもそのわりに、テストの点はさほどってかんじだし。
時間制限と見られる番組に制限はあるけど、テレビを見たり、図書館で本を読んだりがわずかな娯楽。
夕刻が過ぎて、寮長のおばさんが寮内のチェックにやってきた。通路で目が合って軽く頭を下げる。
ふぅとためいきをついて、寮長が
「404の……だけだね」
「は、はい、桃山です!」
「桃山、ね」
フン、とわざとらしいような鼻息を残して寮長はあたしに背を向けて歩いていった。
なんか、気に障る態度だな。まあこんなの今に始まったことじゃないけど。
自慢じゃないけど、あたしには友達がいない。ほんとに自慢じゃないけどさ。
あたしは学校に入るくらいの歳のころ(六歳くらいだったかな)、Aエリアの実家を出て寮に入った。
両親の事はほとんど記憶にない。あんまりいい思い出もないし、あたし自身親の顔を見るのが嫌だったのかも。
学校に通うようになって、両親がどうなったかも知らない。あまり興味がないからもあるけど。
あたしが寮に向かう途中で、あたしを出迎えてくれた一人のおばあちゃんがいた。
それが、「桃山タカネ」あたしの母方のおばあちゃんで、今はBエリアに住んでいるらしい。
荷物を持ってくれて、そしてあたしの手を引いてくれた。
「リンネ」
とても優しくて柔らかい声で、あたしをリンネと呼んだ。
その時ハッとした。あ、あたしの名前ってリンネだったんだって。
だってずっとあたしの名前を呼んでくれる人なんていなかったから。
だからすごく不思議な感じで、どこかくすぐったくて、ほっぺたがぷるぷるなっているのを悟られたくなくて、必死で口元に力を入れていた。
寮までの道はそんなに長くなくて、だからずっとずっとその道が続いていればいいのにって、そんなことを思っていた。
何でそんな風に思ったのかな?くすぐったいその気持ちの名前、あたしはよく知らなくて。
でも、たしかな気持ちは、あたし寮について別れ際に言ったんだ。
「また、会いにきてくれる?」
って。
おばあちゃんは、いつもはこられないけど、でも来られるときは絶対に会いに来るからって、約束してくれた。
おばあちゃんとはあれから、ろくに会ってないけど、最近なら五年前の花火を見に行った時くらい。
事情はよく知らないけど、Bエリアの制約とかで、あまり好き勝ってBエリアを出られないってことだからしょうがないのかも。
まあAエリアのあたしも、勝手にこのAエリアを出ることはできないしね。
どうしてもな理由がある場合のみ、学校を通してAエリアの領主さまから許可をもらえれば出られるらしいけど。
あたしは産まれてこのかたAエリアを出たことがない。
CエリアもBエリアも行ったことがないし。
Bエリアはすべてが自由だけど、その分とても恐ろしい街だと聞くから、正直頼まれても行きたくはない。
おばあちゃんが住んでいる街だけど……その恐怖を乗り越えてまで、という度胸はない。
それに、今年の夏休みは、もしかしたら特別なことになるかもしれないから、あたしはこのAエリアにいるつもり。
あたしの人生十五年、それは初めての……
初めて一人じゃない夏休みになるかも?!
ドキドキと一階ロビーの寮生専用の郵便受の前にと立つ。
学生パスを通して、認証に数秒、この間に心臓破裂しそうなくらい。
ピッ
小さな機械音をさせて、あたし宛の郵便物だけが取り出し口から出てくる。
今日も来ていた、その一通の手紙は、二ヶ月ほど前から届きだした。
差出人の名前はない、んだけど。あたしと仲良くなりたい、といった内容のもの。
生まれて初めてのことですよ。
幼い頃から、あたしはなぜか友達が一人もできなかった。
勇気を出して、声をかけたり、アタックしたりした。
でもむりだった。理由はまったくわからない、あたしが近づくだけで逃げ出したり、脅えた顔で見たり。
身に覚えがないし、どうしていいのかわからない。
あたしは人間とコミュニケーションがとれない生命体なんだろうか、と自虐的になって諦めて。
一人のほうが気楽だし、うんいいもん別にって、開き直って、十五年。
そんな日も終わりを告げる日が来ようとしている。
手紙をゆっくりと丁寧に、封を開ける。
便箋一枚、いつもこんなかんじにシンプルに一言だけ書かれた手紙。
『いつも見守っているよ』
『いっぱいお話がしたいな』
『今度一緒に遊ぼうよ』
こんな風に、一言だけ添えられているのだ。
向こうはあたしを知っている。でもあたしは知らない。その手紙の送り主のこと。
年齢も性別も、名前さえも。
おばあちゃんでないのはたしか。おばあちゃんの手紙はちゃんと差出人のとこ書いてあるし。
そのおばあちゃんからの手紙が届かなくなってからは、この差出人不明の不思議な手紙があたしの密かな支えになっていた。
気味が悪いなど、欠片も思ったことなかった。純粋に嬉しかった。
ずっとわけのわからない差別を受けてきて、誰一人あたしを見てくれなくて、そんな中、この手紙の人はあたしを見ていて、あたしの応援をしてくれている、あたしの味方……。
差出人不明ゆえ、だれなのか探りようがないけど、いつか出会うことができたなら……。
夢見ていたことがその今回の手紙に記されていた。
『夏休みになったら、会いにいくね』
「え、ええーーー?!」
思わずロビーで声を上げてしまい、寮長に怒られたらまずいと慌てて口元を手で覆う。
うそうそうそーーー?!
夏休みってことは、もう学校お休みだし、てことはもう今からいつ来てもおかしくないーー?!
どきどき高鳴る胸を押さえながら、階段を駆け上り、自分の部屋へと帰った。
もう一度、手紙を開いてみる。
何度見ても、そこに書いてある事実は変わらない。
『夏休みになったら、会いにいくね』
なんて、言ったらいいんだろう?第一声は?
はーー。深呼吸して考えてみる。
自己紹介かな?まずは。それよりも先に手紙のこと、お礼かな?
えええーー、どうしたらいいんだろう?だれか教えて?
おばあちゃん……。
ぽふ。
あたしはシングルベッドへと仰向けになる。眺めていた手紙をスライドさせて、なにもない天井を見た。
おばあちゃんから手紙がこなくなったのは、あたしのせいだ。
自分でもよく覚えてないけど、おばあちゃんからきた返事から察するに、あたしはおばあちゃんの好意を遠ざけるようなことを書いてしまったらしい。
それ以来、おばあちゃんもあたしに気を使って、手紙をくれなくなった。
あたしも余計な心配かけたくなくて、あえて連絡もしないことにした。
「おばあちゃん恋人と一緒にいるらしいし、あたしがいなくても、平気なんだろうな」
そう思うと妙に寂しい、だけど。
あたしだって、もう惨めな思いとはおさらばできるんだ。
手紙の人に会える。
どんな人なんだろう、男の人なのかな?女の人なのかな?
もし、男の人だったらどうしよう。もしかしたら、その人と、こ、恋なんてしちゃったりするかもしれないのかな?
恋ってなんですか?想像つかない感情だよ。
その人に会えたら、そんなことも聞けるかな?聞いてくれるよね、その人はあたしを見ててくれて、こんなあたしに会いたいって言ってくれている人だもの。
どきどきがやまない、どうしよう眠れない。
もう夜遅いし、来るとしても明日の朝以降だろうな。
いつ起きよう?目覚ましはどうしよう。あっ、ちゃんとお風呂に入って、しっかり顔荒って、歯もこれでもかって磨いておかないと。
夜の時間が、こんなに胸弾む時間になるなんて、思いもしなかった。
なかなか眠りにはつけなかったけど、数時間ベッドの中でゴロゴロしているうちに眠ってしまったようだ。

「リンネ、逃げて」
あれ?なんでこんなところにおばあちゃんがいるんだろう。
ふわりと浮いた体。霧がかった世界。
あ、夢か。
夢を夢だと認識できたのは、覚醒直後だから。

あたしは目が覚めた。
夢の中のおばあちゃん、なんだか鬼気迫ったような表情だった。
それで、あたしに、逃げてって言ってた。
何に対してなのか、わかんないけど、夢だからそういうもんなんだけど。
あたしが目覚めたのは、そんな変な夢のせいだけじゃなくて、ある異常から。
ライトを消した真暗の室内はまだ夜中なんだとわかる。
枕元の時計だけはわずかに灯りがあって、時刻は午前二時をさしている。
異常はあたしの足先の向こう、部屋の唯一の出入り口である扉からだ。
ドンドンドン、と何者かが外から連続して叩いているような音がしている。
なに?いったい?
寮長ならそんなことしないし。寮は部外者は入れないはずだから、でも今寮にいるのって、たしかあたしと寮長くらいで。
……て、ことはまさか、幽霊とかいう存在では?!
「うわぁぁ」
がぶっとふとんを頭からかぶって、寝ようと思った。
そう寝てれば、幽霊とかなんて、へっちゃらのはず。
「リンネちゃん……会いにきたよ」
え?
幽霊、じゃない?
扉の向こうからした声は、たしかに生きている人間のもの。
そしてたしかに、あたしの名前を呼んだ。
あたしに会いに来たと言った。
て、ことは、まさかもしや……
どきどきどき、心臓がおっきくなっていく、音が。
手紙の人なの?!
本当に、あたしに会いに来てくれた!
声は男の人。静かで、落ち着いたかんじの優しそうな男の人の声だった。
ふとんをはいで、あたしはベッドから起きた。
寝巻きの上に慌ててジャケットを羽織って、スリッパをはいて、扉の前へと立つ。
今扉一つ隔てて、手紙の人があたしの前に立っているんだ。
「あの、もしかして手紙の…」
ごくっとツバを飲み込んで、あたしは恐る恐る訊ねる。
「うん、そうだよ!手紙読んでくれてたんだね。嬉しいよ」
「あ、あたしも!嬉しかった。あたしのことちゃんと見ててくれている人がいるって知って」
扉の向こうから嬉しそうな返事が返ってきて、あたしも感動の言葉を口にした。
「そうなんだ、ずっと見ていたんだ、君のことを。
会いたくて、会いたくて、たまらなかったんだ。
もう待ちきれないよ。扉、開けてくれないかな?」
そこまで、あたしなんかを想ってくれていたの?手紙の人。
あたしも、会いたかった。どんなステキな人なんだろうと、夢ばかりが膨らんでいく日々だった。
夢が現実になれば、あたしは幸せの中にきっといるんだ。
そう信じて、あたしは扉の鍵を開けた。
現実は夢をはるかに越えていた。
「あああ、やっと、やっと会えた」
扉の先にいたのは、目を血ばらせた怪人だった。

『逃げて!リンネ』
遠い白いあの場所から、おばあちゃんのその声が聞こえていた。


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